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荒野草途伸的君が代解釈

 
 君が代は
 ちよにやちよに
 さざれいしの
 巌となりて
 こけのむすまで
 

解釈

 
「君が代は」
 
 ここで言う「君」とは、恋人のことである。「葵の君」等と同じ用い方になる。「代」は時間、時の意味。つまり「君が代」とは、「恋人の出来る時」ということになる。
 
「千代に八千代に」
 
 この「八千代」という語は、元は別の単語であった。八という字には、元々その下に「×」印が入っていた。しかし明治時代にこれが国家として制定される際に、国威発揚の意味から、例え一部分にせよ「×」などというものが歌詞に入るのは望ましくない、という理由から、削除された。つまり「八」は元々「父」だったのである。父ちよ、つまり、「あずまんが大王」のちよ父のことである。ちよは無論、美浜ちよのことである。
 
「さざれいしの 巌となりて」
 
 「さざれいし」とは砂利のような小さな石のこと。それが長い時間を掛けて集まって大きな岩になる、という意味の歌詞であるが。実際には、長い時間を掛けて起きるのは岩が崩れて小さな石になっていく現象であり、小さな石が集まって岩になるような現象は存在しない。ではこの歌詞が本当にいいたいことは何か。石とは、鉱物である。究極的には、金属体である。それが集まって一緒になり、大きくなる。これは乃ち、「合体ロボット」のことを表しているのである。
 
「こけのむすまで」
 
 どんなに長い時間が経とうとも、使い続けているものに苔が生えることは滅多に無い。つまりこれは、単なる長い時間の経過を表したものではなく、何かの使用を永遠に放棄したもの、と解釈するべきである。
 
 
 歌詞全体を要約すると。
 あずまんが大王とか合体ロボットとか、そういうオタクが好みそうなものを放棄した結果、恋人が出来た(=放棄しなければ永遠に出来ることはない)、という意味になる。
 
 
 この様に、「君が代」はオタクにとって極めて過酷な現実を無遠慮に突きつける極めて残虐な内容なのであり、
21世紀をオタク国家として生きる日本の国歌として、全く以て相応しくない。
 
 
 
以上。
 
 
 
 
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