(この文章は、ストーリー性を高めるため、一部脚色してあります。
また、当事者によって事実に対する解釈が異なる可能性もあることを付け加えておきます)
主な登場人物
*私・・・荒野草途伸のこと。
*T・・・某有名陶芸家の息子。陶芸部部長となる。
*U・・・新進陶芸家の息子。ハゲオカマと呼ばれた。
*Y・・・陶芸部副部長を務めるも、後に幽霊化する。
@MT・・「私」の近所に住む後輩。後に副部長となる。
@F・・・学年トップを走る優等生。Tの次代部長となる。
@I・・・Uに目を付けられてしまった薄幸の天然ボケ少女。
@MM,H・・美術部のくせに何故か陶芸部に出入りしていた二人。
¥KT・・自宅の風呂が薪風呂な男。Fの次代部長となる事を拒絶する。
¥KM・・何となく弱気な男。が、後に副部長にまでなる。
¥S・・・やはり「私」の近所に住む後輩。後に部長を務める。
¥B・・・変態と呼ばれ続けた男。
※記号は、同学年であることを表す。
**************************************************************
あれはもう、10年も前の話になる。13歳で原因不明の病を患い、半年ほど学校生活から離れていた私は、久々に陶芸部の活動拠点である窯業室に足を運んだ。
窯業室は、中学校の敷地の北東の隅にある。背後には崖が迫り、陶芸部員と不良以外は誰も行く価値がないと言われた辺境の地であった。私はそこへ、薄くつもった枯れ葉を踏みしめながら向かっていた。文化祭が終わって間もない、秋の終わりの日のことだった。
スライド式の窯業室の扉は、病み上がりの私にはひどく重く感じられた。鍵がかかっていたのだ。中にいる人間は、私を暫し凝視した後、慌てて鍵を開け、私を導き入れた後、再び鍵を閉めた。鍵を閉めるのは、陶芸部の伝統であった。
半年間の活動休止状態から復活した私を、一同は一応の歓迎をしてくれた。だが、私はすぐに、部屋の中に漂う異様な雰囲気、目に見えない仕切で分割された空間を感じ取った。そして棚には、当時一部で流行っていた「SDガンダム」の陶器製レプリカが並んでいた。明らかに見て取れる陶芸部の異変に私はとまどった。そしてふと、私の感じ取った対立の気配が、部長に就任したばかりのTと、その年に陶芸部に転籍してきたUとの対立が主軸であることに気づいた。
私が陶芸部に入ったのは、陶芸がやりたかったからではない。部活動が強制であったこと、そして私は運動が嫌いであったこと。この二つが主な理由であった。音楽や美術も決して得意ではなく、図書部もその年に廃部になっていた状況では、陶芸部より他に選択の余地はなかったのだ。その年に陶芸部に入った男どものうち、半数はそのような理由であっただろう。そして、我々の世代に女の子はいなかった。
その中で一人、異彩を放っていたのがTであった。我々の知らない陶芸の知識や技術をすでに身につけ、活動に積極的に参加した。なにより、毎日部活に顔を出していた。彼が赤津の某有名陶芸家の息子であることは、後に知ったことだ。
一方で私はといえば、彼とは対照的な道を歩もうとしていた。もとより好きで入った部でもなく、積極的に参加しようなどと言う気は更々なかった。だが、何故か私に目を付けてしまったTは、私が帰宅しようとするのを強引に押しとどめ、部室(窯業室)に連行した。私とTが同じ思考波長を持つことを、この時彼はすでに感じ取っていたのかもしれない。結局私は、「部活動をする」人間になってしまった。
この当時一年生で恒常的に顔を出していたのは、私とTの他に数名いた。そしてこのころにはまだ、陶芸部に活動材料、粘土というものがあった。だが私たちは、それがどんなに貴重なものであるかと言うことを理解せず、ただひたすら遊びの材料としていた。そして、当時勃興しつつあったアニメ文化の波が、陶芸部にも押し寄せようとしていた。
そして秋になり、幹部は交代し、冬が過ぎ、春となった。二年生である。
陶芸部には五人の新入生が入った。女の子が四人、男は二人であった(最も一人は、後に「男ではない」という認証を受けるが)。そして同時に、他の部からの転籍組が数名いた。その中に、Uもいた。彼は元々新進陶芸家の息子であり、Tと私とで積極的な移籍活動を行っていたのだ。だが、彼以外の移籍組は、陶芸をやりたくて移籍したのではなく、運動部の強制的体質から逃れてきた避難者であった。彼らの受け入れには難色を示すものも多かったが、陶芸部を校内の自由の邦として確立させたかった私は、彼らを受け入れるべきだと主張した。これが後の部の荒廃期の要因となるとも知らずに。
そして陶芸部は、すでに部内で実質的な権力を握り始めていたTの指導の元、活発な活動期に入った。そのころ私は、Tの秘書のような立場にいた。秘書というよりは、軍事政権の司令官と参謀のような関係といった方がよいかもしれない。だが、その私に人生の転機が訪れる。五月にマイコプラズマ肺炎を患い、その後一時的に復帰するも、七月には原因不明の病で動けなくなり、夏休みを挟んで四ヶ月の活動停止状態に追い込まれる。
このころ、私の他にもドロップアウトする人間がかなりの数に上ったらしい。その間にもTは着々と部内の基盤を固め、秋にはついに部長に就任した。副部長には、ドロップアウトせず残っていたYが選出された。
だが、陶芸部自体はこのころ衰退期に入る。私が受け入れを主張した「亡命者」はUを除いてまったく部に姿を見せず、さらに私を含めてドロップアウト者が続出する、という異常事態になっていた。元々陶芸部には幽霊化する部員が多かったのだが、亡命者の受け入れという事実により、「陶芸部は帰宅部志願者の温床」というレッテルが貼られ、体育会系教師を中心に部予算の削減が要求され、実行された。予算が無くては、消耗品である粘土を買うことはできず、清掃をおこなって床に散らばった粉末粘土を集め、水で戻して使うという極貧状態を強いられた。必然的に陶芸部は部としての活動を縮小せざるを得なくなった。
ところがTは、この事態を逆手に取った。元々Tは、アニメ信奉者でもあった。陶芸活動ができないならばと、部室にアニメ雑誌を持ち込み、一種の部内サークルという形でアニメ同好会を発足させる。この動きは部員の大半に支持され、さらに
美術部からも二名の「部外出入り者」を呼び寄せる結果になった。陶芸部は、「陶芸部」としては活動停止に陥るも、「アニメ部」として活動を継続し、窯業室内部は一種の退廃的な繁栄を極めていた。
このような状態に於いて、部員の間には一種の「思想」のようなものが芽生え始める。思想といっても、アニメの内容に基づくものであり、信仰との中間的なものと言ってもよいだろう。そんな中、「Uが黒魔術をやっている」という噂が流れた。たわいも無い子供の噂であるが、陶芸部員にとっては深刻な問題であった。アニメ世界では、多くの場合黒魔術は悪である。その黒魔術にUが手を染めたという噂は、陶芸部員の格好の標的となった。陶芸部最高権力者であり部長でもあるTは、「白魔術派」を自ら宣言し、Uに対し宣戦を布告した。
もちろん遊びの一環である、当初は対立と呼べる対立はなかったようだ。ところが、Uが後輩のIに手を出そうとしている、という事実が発覚し、事態は急変する。Iを口説こうとするUに対し、Tその他諸々の配下が総攻撃を加えるという、実力戦に発展してしまった。このTの行動にUは怒り、宣戦受諾を宣言する。
このような状況下、病から立ち直った私は部に復帰したのだった。
合理主義者である私は、当初この紛争には全く関心がなかった。ただ、古くからのT派であるという事実と、Iに手を出そうとしているUをからかうという目的から、Uにちょっかいを出すことはあった。ところが、これがまたUの怒りを買ったらしい。
そのころ部に顔を出していた二年生は、T、Y、U,そして復帰した私の四人であった。Yは一貫して中立派を保っており、Uの敵はTと一年生3人(二人はドロップアウト、Iは立場不明)のみであった。つまり、二年生の敵はTのみだったのだ。一年生3人はTの指揮下に動いており、Tさえ叩けば互角に戦える、というのがそれまでの状況だった。ところがここに来て私がちょっかい=ゲリラ的攻撃を加え初め、勢力状況が一変してしまった。
Uはまず、組織的攻撃をしてくるTよりも、単独でゲリラ攻撃をする私を標的にしてきた。元々彼とは政治的立場が違うということも起因していただろう。これに私は「科学信仰」を掲げ、全面的に応戦した。こうして紛争は、Uと私の全面戦争という展開になった。初めは消費税問題を中心にした政策口論であったのが、次第に実力行使を伴うようになり、窯業室は戦場と化した。
ここに来てTは突如、部長という立場を理由に「中立」を宣言する。紛争が実力行使を伴うようになり、収拾がつかなくなってきたこと、そして私自身が病み上がりで職員室の注視を受けていたことも要因だろう。これにより、状況は一挙にUに有利に働く。元々病み上がりな私と、小学校時代剣道をやっていたUが実力で対等に戦えるはずもない。こうして私は、不利な状況に身を置いたまま春を迎えることとなった。
そして四月となった。三年生である。
どうしたことか、T、U,そして私は、同じクラスに配属されることとなった。この事は、私には有利に働いた。同じクラスで、「あの陶芸部」というひとかたまりで呼称されることが、三人の距離を縮めた。
陶芸部にはその年、男ばかり五人が入部した。うち一人は、すでに帰宅部志望であることが判明していた。残りの四人のうち、Sは私の旧友の弟であり、よく知った存在であった。私とUの紛争はまだ続いており、お互いに新入部員の自派取り込みに躍起となった。この結果、私派が1(KT),準私派が1(KM),U派が2(S、B)という結果に終わった。Sは何故かU派に行ってしまったが、私自身と対立関係に入ったわけではなく、むしろ彼の存在がその後の紛争集結に寄与したといっても良いだろう。また、この時新入部員がこの両派に配分されたことが、後の展開に大きな影響を及ぼすことになる。そして紛争はどちらからということもなく終息し、陶芸部にはつかの間の平和が訪れた。
私とUが実質的に和解したことを受けて、Tは再び「陶芸部復興」にむけて動き出す。この年顧問が替わったこともあり、またTや私の親が育友会(PTAに当たる)で「陶都の拠点の中学校で、陶芸部を干すというこの愚行は何事か」と問題化したことで、陶芸部予算は初めて前年比+に転ずることとなった。粉末ではない、本物の粘土が届き、部には久々に活気が訪れた。また、初めて専門家による陶芸指導もおこなわれた。
こうして、平和裏に三ヶ月が過ぎ、夏休みにはいる。
このころ、Tの独裁的傾向が強まり、それに対する不満が一部で鬱積し始めていた。特に夏休みに入り、部員の私生活を制限するような部の活動方針を独断で決定するということがあり、特に受験を控えた三年生の間に不満が高まっていた。これに対し、Tがあくまで権力で押さえ込むという強硬手段に出たため、ついに不満分子は決起し、8月末、Y・U・私による三派連合結成が宣言された。
時同じくして、次期幹部の選出作業が行われていた。この過程においても、顧問とTとの間で内密に話し合いがおこなわれ、「部長・F,副部長・MT(共にT派)」という内示がなされた。この内示に三派連合は「選考過程が不透明だ」と猛反発し、副部長候補として当時一年生主任を務めていたKTを擁立することを決定した。部長候補を擁立しなかったのは、部長候補はF以外いないということで、全部員の認識が一致していたためである。Fはそれまで二年生主任を務めており、その指導力がTにも匹敵する、と評価されていた。
副部長に対立候補を担ぎ出したことで、Tと三派連合の対立は決定的なものとなる。両勢力による下級生取り込み合戦が始まり、その対象はドロップアウト組にまで及び始めた。(註:当時学校の方針により、必修クラブ活動と部活動が合一化され、ドロップアウト組でも週一回の部活動参加が義務づけられていた)ドロップアウト組の取り込みでは三派連合が圧倒的に有利であることに気づいたTは、伝家の宝刀である「顧問裁定」を持ち出し、その結果内示通りの幹部人事が決定した。KTはT派に移籍することで赦免されるが、それ以外の三派連合系部員はその後しばらく冷や飯を食わされることとなる。特に、いわば身内からの裏切り者である私には熾烈な攻撃がおこなわれた。そして、新幹部就任後もTは部内に影響力を保持し続け、「院政」と揶揄された。
その後、Y、U両名は受験勉強を理由に部から遠ざかり、出てくる三年生はTと私のみとなった。冷遇され続けているにもかかわらずまだ部に出続けたのは、特に理由はない。一種の意地でもあった。だが、旧三派連合系の部員は次々と切り崩され、ついに10月には残すところ三名という状態にまで追い込まれた。
じり貧状態に追い込まれた私に転機が訪れたのは、全くの偶然であった。当時部内では、バッタレースという無意味な遊びがおこなわれていた。貴重な粘土でレースコースが造られ、外で捕獲したバッタを競わせる、というものである。だが、普通バッタはジャンプするため、大抵がコースアウトしてしまっていた。私は、このような遊びには参加しなかった。その意義を感じ取ることができなかったのだ。
ある日、私の元に、コースアウトしたバッタが飛び込んできた。私はためらうことなくそのバッタを外に逃がした。当然オーナーは怒ったが、一人だけ喜ぶ人間がいた。副部長のMTであった。彼は実はバッタが嫌いで、そのバッタレースにも当初から猛反対だったという。というより、そのバッタレース自体が、MTへの嫌がらせなのでは、と、私は直感した。
これを好機到来と感じた私は、「バッタレースの即時中止、粘土の無駄遣い禁止」を提言した。絶対少数派の宿命として当然否決されるものの、MTを引きつけるには十分な効果があった。その後、私はMTと同じ町内であることを足がかりに彼(当時の部内の世論は、彼を男として認めていなかったが)との親交を深め、さらに「味方にならなければバッタを背中に入れる」と恐喝し、ついにMTを味方に引き入れることに成功した。
自らの推薦で副部長職に就いたMTが寝返ったことでTは激怒し、文化祭直前に「MT破門」を宣言する。だが我々は、当時のCMに引っかけて「は〜ちみつハモン」などと暢気に歌い、相手に心理攻撃を加えていた。
MT移籍を受けて、私は部長Fに「非常事態宣言」の発令を要求した。当時陶芸部は、初の文化祭出展(陶芸部は文化系のくせに文化祭に参加していなかった)を控えていた。そのような状況下で、無用な対立は避けるべきである、部長はここで中立を表明し、事態の収拾を図るべきである、と説得したのである。部長は応諾し、中立宣言を出した。元々彼女は根っからのT派ではなく、私とも話が結構合う、ということもあってのことだろう。
さらに私は、「文化祭にむけての挙党ならぬ挙部体制確立」を提言。部長が中立、副部長が寝返った状況では、Tも私の提言を無視するわけにいかず、「挙部体制」が作られる。こうして、二ヶ月以上にわたった第二次紛争は一応の終結を見る。
その後、私は個人的にTと和解。卒業アルバムにの「部活動風景」の写真には、この二人で写ることになる(全くの偶然ではあったが)。その後私は、「奇跡」と揶揄された第一志望校合格を達成。一方Tは、第一志望の美術科に落ち、第二志望校に合格。図らずも、私と同じ高校に進学することとなった。
高校進学後もこの二人は、郷土研究部vs放送部という構図で再び対立することになるのだが、それはまた別の話ということにしよう。