荒野草途伸ルート >> 荒野草途伸独自小説 >>紫春>>8話
8.
 
 数ヶ月、数年。
 雪江が4年生になった頃だった。生理が来なくなっている、その事実に気づいた雪江は、老いがいよいよそこまで来たのだと思った。慌てて鏡を見た。そこにはまだ、30にすら見えない彼女の姿があった。
「(落ち着いて、落ち着いて。)」
 雪江は深呼吸をし、ゆっくりと心が落ち着くのを待った。そして、何故それが来ないのかを冷静に考え始めた。何年か前に嘉名から受けたレクチャーを思い出す。幹細胞化誘導療法によって細胞が初期化されたのは、皮膚や筋肉、一部の内臓といった部分だけ。それ以外の部分は昔のままである。特に脳神経系と生殖器に関しては、その再構築の困難さから、全くの手つかずで手術を受ける前のそのままのものが残されている。だから、見た目が20代に見えても記憶や人格は60年弱を過ごした女のものが残されている。そして同様に、子宮なども交換されることなく同じだけの年数を経ているのだ。
 だから、止まってしまってもおかしくはない。雪江はそう考えた。予兆と言えるものは全く感じられなかったが、しかし突然そうなることも稀にあるとは聞く。自分はそうだったのだろう。
 はあ、と雪江はため息をついた。いつかはそうなるとわかってはいたことであったが、いざそうなってみるとやはり鬱が入らずにはいられなかった。考え方はどうあれ、女としての一つの期間が終わってしまったのだ。子供なんて欲しくない、雪江はそう思っていたが、しかしだからといって、子供が出来なくなったという事実はそれなりにショックではあった。
「とりあえず・・・言わなきゃ。」
 そういいつつ雪江は、しかしそれを誰に言うべきか、すぐには判断をつけかねていた。三閏か? それとも、主治医の嘉名か? 迷った挙げ句、雪江は嘉名の元に行くことにした。三閏とはその後でゆっくり話そう。そう思ってのことだった。
 
 
 
「――そういう結論を出すのは、まだ早いわ。」
 相談に訪れた雪江に、嘉名はそう言った。
「確かに突然生理が止まってしまうこともあるにはあるのだけど、それは事例としてはごくわずかしかないわ。それに、まだ完全に止まったとは言い切れない。ただの生理不順の可能性もあるし、それに――。」
 何かを言いかけて、嘉名はそれをやめた。
「いえ。それより、不安ならば婦人科の方でちゃんとした診察を受けた方がいいわ。何であるにせよ、生殖器の周りがあなたにとって一番のネックになる事は間違いないから。ちゃんとした検査も受けた方がいいと思うわ。」
「そうですか。」
 雪江は嘉名の次の言葉を待った。それがないため、自分の返答を待っているのだという事に気づき、答えた。
「では、検査を受けることにします。」
「わかりました。受けるのは、ここの病院でよろしいですか?」
「はい。」
「では、私の方から手配をしておきます。――今日、この後でもよろしいかしら?」
 嘉名はキーボードを叩き、画面を見ながらそう言った。
「はい、かまいません。」
「では、婦人科の外来受付の方に――場所はわかるかしら?」
「だいたいは。わからなかったら人に聞きます。」
「そう。では、今日中に結果が出るかどうかわからないけど、わかったらこちらにもお知らせ願えますか?」
「はい、そうします。では失礼しますね。」
 そう言って雪江は、嘉名の研究室を出、婦人科の方へ向かっていった。
 
 
 
 その日のうちに検査結果が出ると言われ、嘉名は外が見渡せる窓際で時間が来るのを待っていた。丘の上にある大学病院からは、M大の敷地が一望できた。右手には総合科学部の建物が見える。毎日通っている場所。三閏は、今日もあそこにいるはずだ。
 雪江はもう一度、大学の敷地を見渡した。2年。そう、もう2年あまりも、この学校に通ってきたのだ。あっという間だった、雪江はそう思った。どんなことであれ、楽しい時はあっという間に過ぎてしまうものだ。特に三閏と過ごす間は、それを大いに加速させてくれた。だが、とも雪江は思う。2年という時間は、自分が過ごしてきた60年弱と比べれば、実際にほんのわずかな時間でしかない。
 しかし、その2年はそれ以前の50年と比べても同等の価値があるように、雪江には思えた。そう思いたかった。そう考えると逆に、2年という時間はとても長かったのだろうか、雪江はそう自問した。貴重な時間、かけがえのない時。瞼を閉じると、無邪気な三閏の笑い顔が浮かぶ。
 これで良かったのだ、と雪江は思った。普通とは違う人生を歩む選択をした、それは間違ってはいなかったのだ、と。たとえそれが、もうすぐ終わってしまう時間であったとしても。
 雪江は時計を見た。約束の時間までそろそろだった。雪江は鞄を持ち、椅子から立ち上がった。
 
 
 
 受付の看護師に番号を告げらた番号、そのブースの中に雪江は入っていった。診察室の中には、先程検査を担当した医師と、嘉名がいた。藤村というその婦人科の医師は、雪江が問う前に説明を始めた。
「今回の検査の結果をご説明するに当たり、あなたの主治医である穂積も同席して貰うことに致しました。あなたのこれまでの経緯と状況、それに今回の検査の結果を踏まえての判断です。ご了解いただけますでしょうか?」
「はい。」
 そう答えながら、雪江は身を固くしていた。ただ嘉名が同席するだけならさほど気にはならなかったが、今回の検査の結果、というくだりが気になっていた。
「さて。先程の検査の結果ですが。結論から申し上げると、閉経でも生理不順でもありません。」
「はあ。」
「その、おなかの中に、二ヶ月のお子さんがいらっしゃいます。」
「――はい?」
 雪江は一瞬、その言葉を理解できずにいた。呆気にとられる雪江を見て、藤村は一呼吸置いた後、続けた。
「本来ならばおめでとうございますと言うべきところなのですが――愛瀬さんの場合、年齢は50過ぎで初産。例の治療法を受けられたとはいえ、子宮の方は再構築をせずにそのままということですので――。」
「・・・・。」
「通常の高齢出産同様、大変なリスクが伴う、ということを申し上げざるを得ません。」
「申し訳ありません。私も、このことにはもっと留意しておくべきでした。」
 嘉名が深々と頭を下げる。雪江は、はっと我に返った。
「いえ。先生が謝るようなことでは。」
 雪江は、頭を下げる嘉名を必死で押しとどめた。雪江が落ち着くのを待って、藤村は続けた。
「急かすようで申し訳ないのですが、ご決断は1ヶ月以内にされた方がいいと思います。通常でも妊娠三ヶ月を超えた場合は母胎への負荷が大きいとして、引き受ける優生保護医も少なくなります。ましてやあなたの場合、幹細胞化誘導療法の影響がどのように出るかわからない体です。リスクは限りなく大きくなりますし、そもそもやってくれる医師も見つからないかもしれません。無論、三ヶ月を超えない場合でも、リスクはより小さいというだけで、0になるわけではありません。」
「では、やはり生んだ方がいいと・・・。」
「残念ながら、何とも申し上げられません。おなかの中の子供が大きくなるに従って、母胎への負担は大きくなります。その時まで子宮が耐えられるか。また、人工的に若返らせた体細胞にどんな影響が出るか。逆にそれが、胎児に影響を及ぼすのか否か。何も、わからないことだらけなのです。」
「・・・・。」
「大変無責任な話で申し訳ないのですが・・・こればかりは、私どもが勝手に決められる話ではないのです。愛瀬さん自身に決断していただくしか無いのです。」
 そう言って嘉名は、再び頭を下げた。雪江はそれに、返答を返すことが出来なかった。どう答えればよいのか、わからなかった。
「なにか、お聞きしておきたいことはございますか?」
「・・・・・・いえ。」
 今は、何を訊けばいいのかもわからない。それが、雪江の正直な心境だった。
「では、今日はこれで。」
「どうするか決めたら、一度私のところにご連絡いただけますか?」
「はい・・・。」
 雪江は力なく頷き、立ち上がった。診察室を出るところでもう一度軽く会釈をし、そしてそこを出た。
 
 
 
 歩きながら、雪江は考えていた。まず、過去のこと。何故こうなってしまったのだろうという疑問。避妊はしていたつもりだったのだが、うっかりそれを忘れてしまった日があったのだろうか。そして、これからの事。それは、三閏にこのことをどう伝えるべきかという悩みでもあったし、その後どういう決断を下すかという葛藤でもあった。生む、生まない。そのどちらかを選択した場合の、それぞれの未来の想像でもあった。どれもこれも自分には荷が重すぎる、雪江はそう感じた。
 そもそも、子供など欲しくはなかったのだ。育てきる自信もない。そんなものがあるならば、もっと若いとき、そう、正真正銘の若い時に作っている。それをどうして、今になって。リセットしたのが良くなかったのか、それも中途半端に。本来あるべき時間の経過をたどらなかったから、これはその報いなのか。自然の摂理が与えた報いなのか。
 いや、そんなことはない。そもそも、せっかく出来た新しい命に対して、そんな風に考えてはいけない。もっと前向きに考えるべきだ。これは三閏との、愛する三閏との間に出来た子ではないか。もっと喜んで然るべきだ。もっと素直に受け入れるべきだ。
 だが。そのどちらを選ぶにせよ、それには大きなリスクが伴うのだ。リスク。リスクとは、具体的になんだろう。ふと雪江は、そう思った。一体どこまでの危険があるのだろう。怪我をするのか。治らない、重い病気にかかってしまうのか。命を落とすことになるのか。もっとよく訊いておけば良かった、と雪江は後悔した。わからない、返ってくるのはそういう答えだったかもしれないが、それでも訊いておくべきだった。だが、今から病院に戻ってそれを聞き直す気には、なれなかった。自分で気づいてしまった後では、敢えてそれを確認するのが怖かった。
 進むも地獄、引くも地獄。もう、自分では到底決めきれない。どうしたらいいかわからない。それが雪江の心境だった。答えが欲しかった。与えられた答えが。
 とぼとぼと歩きながら、雪江は総合科学部の建物の中に入っていった。
 
 
 
 総合科学部408号室。応用生物学科の研究室のうち、3つの研究室の学生が共同で使っている部屋。そこに、雪江はやってきていた。三閏を訪ねるために。
 扉を叩いてから開けると、直貫が出迎えてくれた。三閏とは別だが、そこに同居するもう一つの研究室に彼は所属していた。
「三閏なら今、奥で記録付けやってますから。たぶん、すぐに終わると思いますよ。」
 そう言って直貫は、雪江に椅子をすすめた。その椅子に腰掛け、雪江ははあとため息をついた。
「どうかしたんですか?」
「いえ、ね。ちょっと。三閏君に・・・大事な話があってきたものだから。」
「そうなんですか。・・・もしかして、長引きそうですか?」
「え、ええ。そうなるかもしれないわ。」
「そうですか。いや、今三閏がやってるテスト、途中の時間は空くけど全体は結構長くなるものらしいので。」
「あら、そうなの。じゃあ出直した方がいいのかしら・・・。」
 雪江が考えている間に、二人の元に三閏がやってきた。別の学生が知らせてくれたようだった。
「雪江さん。どうしたんです?」
「ええ、ちょっと・・・。」
「なんか、大事な話があるらしいぞ。長くなりそうな。」
 口ごもる雪江の代わりに、直貫が三閏に言った。
「そうなんですか。でも僕、今水晶体細胞の培養実験やってて、夜までかかりそうなんですよ・・・。」
「三閏。それって後は、顕微鏡除いてクラスター数数えるだけで良いんだよな?」
「うん。今日は成長速度を見るだけだから。」
「じゃあ、俺が代わるよ。」
「え。いいの?」
「ああ。大事な話みたいだから、外出てゆっくり話してこい。」
「わかった。ありがとう。」
 そう言って三閏は、雪江の肩を軽く叩いた。雪江はそれに応じて、椅子から立ち上がった。
「岩竿君、ありがとうね。」
 そう直貫に礼を言った。直貫は無言で手を振り、部屋の奥に入っていった。そして雪江と三閏は、部屋の外に出た。
 
 
 建物の屋上。うっすらと夕日が差し始めるのが見えるその場所に、雪江と三閏の二人はいた。並べられたプランターの間を縫うように歩き、奥に進む。誰もいないのを確かめて雪江は立ち止まり、話し始めた。
「さっきね、大学病院に行ってきたの。」
「うん。」
「――二ヶ月だって。」
「えっ・・・。」
 三閏の顔から、さっと血の気が引くのがわかる。予想だにしなかった言葉への驚き。しかし、その意味するところはわかる。無論、彼自身に身に覚えのあることであった。
「そ、そうなんだ・・・。」
「ただね。このままお腹の中で育てて生むことには、リスクが伴うって。ほら、私、子宮は昔のままでしょう。だから、普通の人の高齢出産と同じ事になっちゃうんだって。」
「・・・じゃあ。」
「うん。だからといってね、途中で堕ろしちゃうのもやっぱり、それはそれでどうなるかわからないって。堕ろすということ自体体に負担がかかるし。それが、私みたいな体だとどういう影響が出るかわからないって。三ヶ月目までならリスクは減るけど、でも0にはならない。」
「・・・・。」
「はっきり言って、どっちも五分五分。だからどうするか、自分で決めなきゃいけないの。」
「自分で・・・。」
「そう。でも、三閏君の意見も聞きたいの。この、お腹の中のこの父親でもあるし、それに・・・私が今、一番頼りにしたい人だから。」
 雪江はじっと、三閏を見つめた。瞳を見つめた。三閏は、唇をぎゅっと噛んだ。何かを言おうとしてやめ、暫く沈黙が続いた。そして口を開いた。
「・・・死ぬ・・・可能性もあるんですか?」
「そこまでは聞いてない・・・けど、あるかもしれない。どちらの場合でも・・・それはあり得ると思うわ。」
「・・・ッ!」
 三閏は口を歪めたまま、強く瞼を閉じた。やるせない思い、そして、自分への怒りが彼の中にこみ上げていた。
「ごめんなさい・・・・っ。」
「謝って欲しくなんかないわ。それに今欲しいのは、そんな言葉じゃない。」
「そ、そうですね・・・。」
 言ってから雪江は、それは少しきつい言い方だったと気づいた。三閏は拳をぎゅっと握りしめていた。しかし、雪江が何か言う前に、三閏の言葉が先に出た。
「5分・・・5分だけ、考える時間もらえますか?」
 三閏はそう言った。そんな短い時間でなくても、もう少しじっくり考える時間はある。雪江はそう言おうとしたが、何故かそれを言えなかった。それを言ってしまうことで、返ってくるはずの答えが得られなくなってしまう。ふと、そんな恐怖心に駆られてのことだった。
 風が、吹いた。三閏の短い髪が、雪江の肩まである髪が、揺れる。長い、今度は雪江はそう感じた。こんなに長い5分間を、今まで自分は味わったことがあったろうか。こんな割れた氷壁の間に立たされたような心境になったことが、今までにあっただろうか。そう思った。そう、いっそ自分で決めてしまえれば良かったのだ。答えなど待たずに。
 それでも。時間は、確実に経過していた。正確に5分だったかどうかはわからない、しかしおそらくはそこからそうはずれてはいない時間が経ち、三閏がようやく口を開いた。「僕は――。」
 雪江が待ち望んでいた答えが、ようやく返ってきた。
「僕は、雪江さんに死んで欲しくなんかない。でも、生かせられるなら、お腹の中の子も生かしてあげたい。」
「・・・。」
「二人とも――いや、二人じゃない。三人で、生きていける道を探っていきたい。そうするために、あらゆる手を尽くしたい。そう、思うんだ。」
 言い終わった三閏は、雪江をまっすぐに見つめた。空、雪江の頭上から、雲が流れていった。見つめ合う二人。三閏は両手を雪江の肩に伸ばし、そしてそっと抱き寄せた。
「がんばろう。僕も、がんばるから。」
「うん・・・。」
 雪江は三閏の胸の中で頷いた。
 
 
 
 それからの7ヶ月。お腹の中に爆弾を抱えたかのような、雪江の生活が始まった。三閏は始め必要以上に雪江を気遣い、雪江の身の回りのありとあらゆることをやろうとした。まるで介護を受けているかのようなその扱いに雪江は、そこまでしても意味は無いと諭し、時には抗議した。時に口論になりかけることすらあり、そのたびに三閏が我に返って、雪江と雪江のお腹をまた必要以上に気遣うのだった。それを見て雪江は、出来の悪い父親を見ているようだと苦笑せずにはいられなかった。
 雪江が休学届けを出した頃、三閏は就職活動を始めた。大学院に進むはずだった三閏がスーツを着て動き回るようになったのを見て、雪江はもしかして、三閏の夢を絶ってしまったのかと悩んだ。それに対し三閏は、それはお互い様だと言い、後からでも、働きながらでも院は行けるからと、笑って見せた。
 検査に行くたびに、三閏はついて行った。それが終わるまで、三閏はずっと不安と緊張で顔をこわばらせていた。そして嘉名が問題無いと告げると安堵で顔が崩れ、しかし油断はしないようにと注意されて、また顔を引き締まらせるのだった。そんな表情の変化を見ているのが、雪江にとっては楽しかった。
 三閏の、近くの小さな植物研究所への就職が決まり、久々にあの6人全員が集まった。鹿駈は教員、鯉子は院に進学。直貫と理香も、民間企業への就職がもう決まっていた。ともすれば馬鹿騒ぎになりがちな彼らに対し、三閏はお腹の子に障ると怒り、それを誰かがなだめるという構図。そんな変わらない光景を、雪江は同じように微笑ましく見ているのだった。
 冬に入って、三閏が滑って転んで頭を打った。外は危険だ絶対に気をつけなければならないと力説する三閏に、雪江はそんな大袈裟なと笑った。三閏は神妙な顔になり、もうすぐ生まれるというところまで来たんだ、折角ここまで来たのに台無しにしちゃ行けないといった。雪江も、そんな三閏の言葉に身を引き締めた。ゴールまで、あとわずかな時間になっていた。
 
 そして冬が終わりを告げる頃。雪江は再び病室にいた。以前は自分が生まれ変わるため。今度は、新しい命を産み落とすため。何が起きてもいいようにと、外科手術並みのスタッフチームが組まれていた。そしてその日が来た。夜が明けて、朝がやってくる頃。
 
 
 そこで彼女は必ずこう言うのだった。そしてあなたが生まれたのですよ、と――。
エピローグ
 
 柔らかい日差しの漏れる窓を、彼女は見つめていた。いつもの話を終えた彼女は、今はじっと、その体を休めている。私は椅子から立ち上がり、テーブルの上にあった花瓶を手に取った。水を取り替えて来ると言うと、彼女は何も言わず、ただ頷いた。
 私は戸口で一度振り返り、彼女――私の母親を見た。既に80を超えている彼女の姿は、私の母親と言うよりはむしろ祖母に近いものがあった。そう、今はもう、そんな姿になってしまっている。幼かった頃。家に帰ると、急激に老いが進むことに落ち込み、鬱状態になっていた母の姿があったことが思い出される。そんな母を見たくなくて、家に帰りたくなかった時期もあった。
 流し台で花瓶の水を取り替える。花はまだ保つだろうと思い、捨てなかった。花瓶を持って部屋に戻ると、母はまだ窓の外を見ていた。父のことでも考えているのだろうか。きっとそうだ、というよりは、それはそうであって欲しいという私の願いだった。
 花瓶を元の位置に戻すと、母が話しかけてきた。
「和葉。」
「なに?」
「ここにいてもつまらないでしょう。外に出かけてきても、良いのよ。」
「別につまらなくはないわ。出かける用事もないし。今日は暇なの。」
「そう。」
「休日がいつもこんな調子ってのも、なんだか悲しいけどね。」
「そうね。」
 母はそっと目を閉じ、少し黙った後、続けた。
「楽しいこと、見つけなさいよ。人生は一度きりだから。」
「うん・・・。」
 それは、確かに私に言った言葉だった。だが母の目は、私の方を向いてはいなかった。ずっと窓の外を向いたままだった。私は母の隣に座り、その同じ方を見てみた。
 柔らかい日差し。そして母はそっと、静かに静かに目を閉じた。
 
 
 
 
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