10.
空は曇っていた。それは、これからあることを暗示している、そんな気分になってなんだか嫌な気分になった。最も、晴れていたらいたで、自分がこんな気分なのにと悪態をついたことだろう。人間は勝手だ。人間は勝手だ。そう心の中でつぶやきながら、森の中を走っていた。
土が撥ね、時に盛り出た木の根を蹴る。幹に手をかけると音を立てて枝が鳴る。どれだけの時間をかけてそこに着いたのかわからない。緑に覆われた盛り土の前で、僕は両手を膝で支えながら息を切らしていた。毬音はそこにはいなかった。5回ほど大きな息をし、そこにある穴の中に入っていった。迷いはなかった。
入り口からのみわずかな光が差す、薄暗い空間。通り道はわずかに下に傾斜していて、その先に広くなっているところがある。隅にはめ込まれた木の柱が見える。そして向かいの壁、入り口を見る位置でもたれかかっている人の姿があった。毬音だった。
「明かりが必要かしら?」
「いや・・・僕はいい。」
「そう。ならつけないわ。」
そう言って毬音は、壁から離れた。こちらに向かって歩いてきた。僕も、毬音に向かって歩いた。おそらくはこの穴の中心であるところで二人は出会い、足を止めた。毬音が腰を下ろしたので、僕もそれに習った。天井を見渡し、そして僕の方を向いて、毬音が語りかけてきた。
「ここは、人の手によって作られた場所。それはわかるわよね?」
「うん。」
「何の為だかわかる?」
僕は、穴を見渡してみた。特別なものは何も見あたらなかった。
「わからない。何があるの?」
「・・・何かがある訳じゃないの。言ってみれば、この場所そのものに意味がある。そして、この場所を留め、遺しておくために、わざわざこんなものを作った・・・」
毬音は、ゆっくりと上を向いた。そこには何もなく、ただ固められた土の天井があるばかりだった。きっともっとその上、この盛り土の外の方を向いているのだと、僕は思った。
「いつの頃かわからないけれど、この森には記憶が託された。それは、決して短い時間では無く。木の一本一本が育つのを待ちながら、長い長い時間をかけて作り出されていった。」
さらさらと、土の流れる音がする。毬音の右手が、手元の土を取って上から流していた。土は地に落ち、粒が散逸してゆく。その一粒一粒がどこへゆくのか、落ちた時点では全く分からない。それでもその集まりは、次第に形ある、錐形の山へと成長していった。
「記憶は森の全てが有している。ただしそれは、私たちしか見えない。生とし生けるものの全てと心を通わすことの出来る、私たちしか。そして、私たちであっても、それをどこからでも見ることが出来るわけではない。――ただ唯一、はじめに記憶が形取られたこの場所、今も思いが交差し続けるこの場所でのみ、見ることが出来る・・・。」
毬音が、再び僕の方を見た。光が薄くてよく見えなかったけれども、その眼差しだけははっきり見える気がした。それほどまでに、強固な意志が伝わってきた。
「あなたに見せられるのは、そのほんの一部でしかないけれど・・・それでもあなたが望むのなら、それをお見せします。」
僕は頷いた。毬音の目が閉じ、そして僕の目も閉じた。暗闇と静穏が周りを包んだ。そして記憶がやってくる。毬音の心を介して。
毬音の心から流れて来るもの。
それは、かつてこの地で起こったことを再現するもの。森の歴史であった。太古の昔より、森に住む者たち。生とし生ける全ての者たち、獣、虫、魚、鳥、木々、草花。それらは全て共に生き、共に喜びを分かち合う存在だった。
その中に混じって、高度な知能を有する者たちがいた。全ての生物の魂の響きを感じ取り、その仲介役として存在する者たち。同じ種族が、当時方々の山河森野に根付いていた。
これらの者たちがいつ頃からいたのかはわからない。どこから来たのかもわからない。ただ、確実に彼らはそこにいた。自分たちはずっとそこに居続けると信じて。
私たちの原点に当たる者たち。
だがある日、外部からの来訪者がやってくる。
いつの頃からか、その異種族はこの島々に定住し始めた。彼らの祖先は、海を渡ってこの島にやって来た。海の向こうには、彼らの築いた文明がいくつも栄えているのだと言った。音の響きの違い、言葉によって互いの意思疎通を行っていた。
彼らは、自らを「人」と称した。
「人」は最初、友好的であった。土、水、木々、風。これらと共に、生きることを、快諾した。定住に成功した「人」は、少しづつその生息域を広げていった。
この森にも「人」がやってきた。
我々の持つ力は、彼ら「人」にはない。「人」は当初、我々を畏怖の目で見た。力の意味を知り、敬服する者もいた。崇め奉りもした。そこには争いはなくとも、大きな隔たりが存在した。
でも、そのような関係は、長くは続かなかった。我々と「人」とは、作りも外見も似ていた。ただ、意思疎通の方法が異なるだけであった。しかし我々の意志は確実に彼らに伝わったし、無論彼らの意志を理解できた。そして、我々の中にも、「人」の言葉を理解できるようになるものが出てきた。
互いの間にあった隔たり、違和感は次第に消えていった。生活をともにし、いつしか「人」と恋に落ちる者も現れた。
幸せで、平和な時であった。
だがそれは、終わりのある平和だった。
旺盛な繁殖力を持つ「人」。その数は次第に増殖してゆき、元からの森の存在を脅かすまでになっていた。それは、「人」がこの地にやってきたときからの既定事項であった。「地に満ち足りよ」。それが「人」の宿命だったのだ。
年を追う毎に数を増す「人」。その「人」が生き延びることには、多くの犠牲が必要であった。それは、確実に先住者の存在を脅かすものとなっていった。
危機が訪れた。少なくとも我々は、そう感じた。
我々そして我々の同族は、「人」の心に、抑制と共存を訴えかけた。だが、既に多数者となっていた「人」は、その訴えを黙殺した。
そして、至る所で、我々と「人」との衝突が起きた。
数の力で圧倒的に勝る「人」。彼らは、抗う自然の力を討ち、切り払い、焼き払った。それに抗し、そして滅んでいった同族もいた。
彼方から伝わる断末魔の叫びは、この森に住む我々の心を苦しめた。伝播する憎悪感情は、この森にも対立の火種を植え付けていた。
かつての平和は、もうそこにはなかった。抗って争うか、座して死を待つか、それとも・・・。
そして、我々は選んだ。戦いを避け、生き残る道を。たとえ僅かとなっても、滅びのない道を。今や絶対多数者となった「人」と同化し、「人」として生きる道を選んだのだった。
既に混血も誕生していた「人」との同化は、さほど難しいことではなかった。だが、広大な森は消えた。増え続ける「人」が生き残るには、森を切り開くしかなかった。その事実は、「人」として生き、しかしかつて「人」より森と共に生きてきた我々の心を苦しめた。
森を犠牲にして生き延びた己。その深い悔恨から、自らの証を消し去ろうとする者もいた。昔の姿に戻ろうと、より険しい森の奥深くに消えていった者もいた。我々のように、「人」として生きながらも、こうして記憶と事実を留め置こうとする者も、いた。
そして時は流れ、人の築いた文明がこの島を席巻する。
かつてこの地に住んでいた知的生命の存在は、完全に忘れ去られていた。それを示すものは、この小さな森に残る記録、そして、「我々」の子孫にわずかに残された力のみ。
それは、わたしのちから・・・・・・・・・・
「・・・・・・。」
「・・・・・・・。」
気がつくと、視野に映っているのは毬音の姿だった。何か答えを期待している、そう思った。だけど、僕には何も答えられなかった。答えが出なかった。今まで全く感じていなかった隔たり、それを突然突きつけられたような感じだった。肯定も否定もない。思考停止だった。そしてわずかに、この事実から逃げたいという思いがあった。
毬音は、そんな僕の態度に失望したようだった。心が閉じてゆく、そんな感覚が伝わってきた。慌てて手を伸ばしたが、遅かった。毬音は身を固くした。目を合わせてくれなかった。
どうしたらいいのか、ますます分からなくなった。出すべき言葉が頭の中で提示され、そしてそれが全て否決された。何を言っても通じない。いや。正確には、通じるだけの言葉が、今の自分には言えない。
僕は毬音をそっと抱きしめた。明確な意志はなく、ほとんど混乱の中でしてしまったことだった。毬音の身は固いままだったが、それでもそれ自体を拒むことはしなかった。僕も、ずっとそのままでいた。
そして、長い時が経った。毬音は、何も言わない。こっちを見てない。心は閉じたままだ。
言葉は出なかった。それでも、思いは形を見せてきた。今すぐに、それを伝えたいと思った。だが、僕一人では、心を直接通わすことはできない。毬音がそれを望まない限り、不可能なのだ。それでも僕は願った。一心に願った。
届け、届け。あの夜出会ったときから、僕の心を支配してやまないもの。一生を費やしてもかまわない、生命を賭してもかまわない。純粋に毬音を愛する、毬音と共に歩みたいと願う心。人じゃない?それがなんだ。そんなの関係ない。人は人しか愛しちゃいけないのか?だったら、人ってなんだ。そんな線引き、誰がするんだ。できやしない。いや、意味がない。毬音は毬音だ。僕の愛した毬音だ。それでいいじゃないか。僕が味方なら。もし毬音を侮辱する奴がいたら、僕が擁護する。もし毬音を排除する奴がいたら、僕は一緒について行く。もし世界中の人類が毬音を攻撃しても、僕は決して見捨てたりしない。神仏悪魔が相手になっても、僕は決して毬音を裏切らない。ずっと一緒にいる、最期まで守ってみせる、だから、だから、・・・・
意識が混濁してきた。これを言葉にしなければ。そんな思いを最後に、僕の意識はとぎれてしまった。
なにかが、来る。
響きが、伝わってくる。
穏やかな、だけど力強い波動。
でもそれは届かない。
達することが出来ない。
軟弱な壁。つつけば壊れる壁。
だけどそれは何層にも折り重なって、来たらんとするものの行く手を阻む。
聞こえる。伝わる。感じ取れる。
でも届くことはない。
なぜ、今更?
時が過ぎた。
少し飽きた。そんな形容があっている気がする。
まだ来る。まだ響いている。
そんなに私に伝えたいの?
それとも私は、知るべきなの?
意地になっている自分がいる。
完全じゃない自分がいる。
それは私が人だから?
それは私が彼らの子孫だから?
きっとそれは、答えにはならないと気づく。
まだ来る。まだ来ている。
それは届いてはいない。
私はこれを、まだ知らない。
知りたいと思った。そのためには、届かせる必要がある。
私はこれを、受け入れるべきだと思った。
そして道が開かれる。
雲間の水蒸気が蒸散するように。
カルシウムイオンが卵子の性質を変えるように。
波の行く手を阻むものは消える。
来た。
共鳴。
それは、私の響きと彼の響きが起こすもの。
互いに異なる存在が、新しく生み出したもの。
そして生み出された振幅が還って行く。
私の思い、伝えに・・・・
視野に映る響助の顔。眠っているように見える。私はどうすべきか躊躇した。でも響助はすぐに目を開けた。語りかけてきた。
「毬音・・・。」
音と姿の方向に、私はそっと手を伸ばした・・・・。
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泉のほとり、いつもといるところとは違う場所で、彼は佇んでいた。事の成り行きに心を傾けながらも、その全てを知ることはなく。ただ、遠くから見守りながら。
終わったという認識が、彼の中に生じた。そして始まると。
「心が僕の中を流れ、思いが僕の中を巡る。泉から流れ出た川が大地を抜けて海に注ぐように。そして僕は、その水の流れにただ手を浸す事が出来るだけ・・・。」
そう呟いて、彼は歩き出した。もうそこにいる必要はないと判断したからだった。だが、二、三歩歩いたところで立ち止まった。彼の後ろに人の気配を感じたからだった。
「その・・・くん・・・。」
園和俊はゆっくりと振り向いた。もうすっかり見慣れた顔、馬場諭紀子の姿がそこにあった。
「何か?」
「・・・ここに・・・今ここに行った方がいいと、ある人に言われて・・・誰かは言えないのだけど」
「あの人か・・・。困った人だ。」
そう言って和俊は、再び歩き出そうとした。
「待って・・・何を話したらいいのか分からないけど、とにかく待って・・・!」
諭紀子の言葉に、和俊は再び立ち止まり、振り向いた。
「何を話したいのか、それは僕には分かっている。分かっている、けれども、僕には何も出来ない。」
「どうして・・・。」
諭紀子の目は、真っ直ぐに和俊を捕らえていた。
「私が・・・私があなたを、受け入れきっていないから・・?」
「違う。」
諭紀子の視線に耐えきれないとでも言うように、和俊は大きく視線を逸らした。
「あなたの所為じゃない。あなたを受け入れられないのは、むしろ僕の方だ・・・」
和俊の拳が、固く引き締まった。
「確かに僕には、人の心を受け、伝える力がある。かつてこの森に住んでいた者のように。だが同時に、僕の器はもう人のものでしかない。力がありながらも、容量としては人のそれしか持てない。だからその分、出来るべき事が出来なくなってしまっている――」
和俊は、諭紀子に背を向けた。
「言葉の大切さを語ってくれた君には、とても感謝している。だけど僕には、それ以上の感情を受け入れることが出来ないんだ・・・」
そう言って和俊は歩き出した。一歩、二歩。それをじっと見つめていた諭紀子は、決意を固めたように胸に手をやり、叫んで呼び止めた。
「でもっ」
一瞬の静寂。諭紀子の言葉がそれに続く。
「あなたはまだ、これから大きくなれるのよねっ?!」
和俊の足が止まる。ゆっくりと振り返る。
風が、吹いた。
草葉、木の枝、空を流れる雲。静かに、それでも確実にそれらは動き。そして諭紀子は、動き始めた心に向かって駆けていった。
幾年かが過ぎた。森はまだ、そこにあった。 昔に比べてずいぶん人が入るようになったのか、道はすっかり人のそれに近くなっていた。それでも、目指す場所に近づくにつれて、それはかつての記憶に近い姿になっていった。
「あそこはまだ、ずっと変わらずにいるかな?」
「それは無いと思う。生きているものは全て変わっていくものだから。・・・ここ気をつけて。」
そう言って毬音は、傍らにいる娘の手を取った。
「・・・おんぶしていこうか?」
「ううん、歩ける。」
そう言って珠茂、僕と毬音の娘は、すっと先頭にまで歩んでいった。
「行こう。」
その言葉に従うように、僕と毬音もまた歩き出した。
「でも――」
そして毬音の言葉が続いていた。
「あそこから込められた思いは、変わっていないと思う。切り開かれ、失われた部分はあっても、残っているものは必ずある・・・。だからこそ私は、この子をそこに連れて行きたい。」
「うん。そうだね。」
空を見上げながら、そう答えていた。
目指す場所は、殆ど昔のままそこにあった。枝葉が空を覆い、わずかに見える隙間から雲が流れてゆくのが見える。あれから人が入ることもなかったのか、背丈の高い草が一面に生えていた。進みづらくなった珠茂が、躊躇しつつこちらを見上げていた。僕はかがみ込んで、両手で珠茂を抱き上げた。
毬音が目を閉じ、耳を澄ます。風が吹いた。草木の葉がこすれあい、さあっという音をたてた。久しぶりにここにやってきた自分たち、そして新しい客を歓迎している。そんな気がした。珠茂はそんな様子に驚いたのか、目を大きくしながら周り中を見渡していた。
そんな珠茂の頭に、毬音がそっと手を置いた。目はもう開き、珠茂をじっと見つめていた。話したいことがある、そう悟った僕は、毬音の言葉を待っていた。そして毬音が、珠茂に語りかける。
ここには、人の思いがあります。
ここには、森に住む者たちの思いがあります。
ここには、私たちの思いがあります。
耳を澄ませてください。きっと言葉が聞こえるでしょう。
心を開いてください。きっと思いが感じ取れるでしょう。
大気を通して届くものは人の綴った思いの結晶。
時を経ながら響くものは生きるものの命の調べ。
あなたには、どちらが聞こえているのかしら――――
完
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