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ゆめいろの森の中で

 
 
 
 ────むかしむかし、あるところにちょっと人のいい男がおりました。
 男は、人柄は良かったのですが、時々川や森を見ながらぶつぶつとよくわからないことを呟いたりするので、村人達からは変わり者扱いされておりました。
 男の方も、自分は少し他人と違うなと思っておりました。仲間の間でやることに、うまく合わせられないこともありました。そんなとき、男はひどく寂しくなり、一人森の中に入って、木々に囲まれながら長い時間座り込んで、物思いに沈んでいました。そのうち男は、特に理由が無くても森に入ってゆき、一人で過ごしていることが多くなりました。
 ある日男は、森の中で一人の女に会いました。女は森の中で木漏れ日を浴び、わらいながら誰かと話をしているようでした。しかし、誰と話しているのか、男にはわかりませんでした。女の周りには、人の姿は誰一人見えなかったからです。
 
 女はすぐ、男の存在に気づきました。そして男にほほえみかけながら、語りかけました。
「こっちへいらっしゃい。来て、一緒にお話ししましょう」
 まるで心の底から呼びかけてくるかのようなその声に、男は誘われるまま女の元に歩いてゆきました。男が女のそばに座ると、女は両手をひろげて、周り中に話しかけるように言いました。
「さあみんな、新しいお友達よ」
 すると、男の心の底から、女のものとは違う、いろいろな声が聞こえてくるようになりました。それは、ふたりの周りにいる、たくさんの木々や、鳥や小動物達が、男に語りかけてくる声でした。
 男はとてもおどろきました。でも、今まで聞いたこともない木や鳥の声を聞くのが楽しくて、ずっとそれを聞き続けていました。また、男が話しかけると、その声もまた、ふしぎなことに木や鳥たちに伝わっていくのでありました。
 
 男は、毎日森に出かけてゆくようになりました。森に住むもの達と話すことは、村にいるよりもずっと楽しいことだと思ったのです。森には女がいて、そして男は森に住むものと話すことが出来ました。でも、女がいないこともありました。女がいないと、男には木や鳥の声は聞こえては来ませんでした。そんなとき男は、森の中で女の名を呼びました。するといつの間にか女がそばにいて、また森の声が聞こえてくるようになるのでした。
 でも、そんな日も長くは続きませんでした。男が毎日森に出かけてゆくのを、村の人たちがあやしむようになったのです。そして、男のあとをつけて森の中に入っていった村人の一人が、森の中で女と二人でいる男の姿を見てしまいました。
 その村人には、森の声は聞こえませんでした。話を聞いた村人達は、男がその女と恋仲になったのだと思いこんでしまいました。そして男に、そんなに好き合っているなら、わざわざ森の中で会ったりせずに、村に連れてきて夫婦になればよいといいました。
 男はこまってしまいました。女と夫婦になることは、決して悪くないと思いました。でも男は、前に聞かされていました。森をはなれ、人々の中に溶け込んでしまえば、森の声はもう二度と聞こえなくなってしまう。男にも、声を伝えてきた女にも。
 男は、答えを出せないまま、また森にゆきました。森にいた女は、すぐに男の抱えている悩みを見抜きました。そして男にこういいました。
 
「行きましょう。私は、あなたと共に参ります」
 それでいいのか、もう森の声はきこえなくなってしまうんだぞ、そう問いかける男に、女はいいました。声は聞こえなくても、私たちが言葉ではなしかけなくても、森はきっと育ってゆく。私たちも、森を守ってゆくことはできる。それに、と女はいいました。またいつかきっと、私のように、森に入っていって、生き物たちの声を聞き、伝えることの出来るのものが生まれてくるでしょうと。
 女は、男と共に森をでました。村の中に入り、夫婦となった二人には、森の声はもう聞こえなくなりました。それでも二人は、自分たちのもうけた子に自分たちが聞いた森の声を、物語って聞かせ、伝えてゆきました。そして、昔聞いたその声を思い出しながら、一生森を守ってゆきました。



1.
 
「7,8,9,10」
 まるで遠くから聞こえるように、回転周期をカウントする声が聞こえる。僕はその声を、当たり前のように聞き流していた。
「ちょっと、今の記録したの!」
「え?」
 慌てて我に返ると、すぐさま自分が何をしているのかが思い出された。目の前で、大きな金属板がゆっくりと回っていた。
「もう…講義ならともかく、実験の授業中にぼんやりしないでよね。最初からやり直しじゃない…」
 半立ちになって僕につかみかかろうとしていた古瀬(ふるせ)智羽(ちう)は、諦めたように大きく息を吐き、そのままどっしりと深く椅子に座り直した。
「ごめん…」
 僕は、とりあえず謝るしかなかった。重りのような金属板は、まだその感性を失わず回り続けていた。そして僕の肩に、軽く重みが感じられた。
「睡眠不足かな、響助君?」
 振り返って、肩に腕を乗せた犯人の顔を見極める。前髪が撥ねて眼鏡をかけた、紺田洋平(こんだようへい)の顔がそこにあった。
「いや、睡眠不足というほどのことはないと思うんだけど…たぶん」
「では風邪か二日酔いかね? それなら薬があるが」
「いや、残念ながらどちらでもない。それ以外の病気でもない。だから薬は必要ない。あり得ない」
 紺田に薬を押しつけられるのではないかと危惧した僕は、言葉を並べ立ててあらゆる薬の必要がないことを主張した。彼は、何の考えがあってのことか知らないが、常時いろんな薬を持ち歩いている。しかも彼は、何かにつけて僕のことをかまおうとする。迂闊な応答をすれば、つけ込まれて訳のわからない薬を何種類も押しつけられかねない。
「本当に必要ないんだ。お引き取り願おう」
「そうか? じゃあせめて、このビタミンEの錠剤だけでも…」
「いやいらないって。マジで。あ、ビタミンの必要性についての講義なら前に聞いたからそれも必要ない」
「あ、じゃあそれ、あたしが欲しい!」
 古瀬が話に割り込んできた。跳ね起きるように椅子から立ち上がり、台座に手を置いていた。その衝撃で回り続けていた金属板が揺れ、回転に加えて振り子運動を始めた。
「何だ君は。またそうやって、響助(きようすけ)君の薬を横取りするつもりかい?」
「いいじゃない、響助君いらないって言ってるんだから」
「彼の要る要らないの意志はこの際関係ない。この俺が彼にとって必要と判断した、それが大切なのだ」
 無茶苦茶な理屈だ。僕の意志はどうでもいいって?
「あたしにとっても必要だと判断してよ」
「悪いが、とてもそうは思えない。君は見るからに健康そのものではないか。体も、アタマも」
 それは無いと僕は心の中でつっこみを入れた。
 
「経済的には不健康だもん」
 そう言って古瀬は、椅子の上でふんぞり返った。決して自慢することではないと思った。
「ああ、わかったわかった。じゃあこのビタミンE錠剤は君にやる。口を開けろ」
「ちょっと待った。口を開けろって、この場で口の中に放り込む気?」
「当然だ。この俺の指はじきの腕前、とくと見るが良い」
 そういって紺田は、大仰な構えをして見せて、古瀬の口に狙いを定めた。周り中の注目を浴び続ける二人、その間に挟まれた格好の僕は、ちょっと鬱だった。
「あーっ、しまったっ!」
「ふふふ、ビタミンE,確かに受け取ったり!」
 顔の前で右手を握りしめ、勝ち誇った表情で立っている古瀬の姿があった。飛んできたビタミンE錠剤を、口の中に入る直前につかみ取ったようだ。紺田は、頭を抱えて座り込んでいた。だが、その表情はちっとも残念そうでも何でもなく、むしろ笑っているようでもあった。
 僕は、ひたすら苦笑していた。いつもと同じ、慣れた光景。それでも僕は、ただ傍観するだけで、中に割って入ることは出来ないでいた。
 そんな僕の肩に、また少しだけ重みがかかった。いつの間にか立ち上がっていた紺田が、僕の肩に手を掛けていた。
「真面目な話、ちょっと体調悪そうだぞ。大丈夫か?」
 耳元で、囁くようにそう語りかけてきた。僕は、油断させて息を吹きかけてくるつもりではないかと、気が気ではなかった。
 
「いや、大丈夫だと思う、たぶん…」
「そうか。まあ、無理はするなよ。それと、夜遊びも控えた方がいいと思うぞ」
「夜遊び?」
 ビタミンE錠剤を小袋に詰めてしまい込んでいた古瀬が、素早く顔を上げて反応した。
「いや、夜遊びなんかしてないぞ。おい紺田、妙な事言うなよ」
 僕は慌てて紺田を詰問しようと、振り返った。だがそこには、既に彼の姿はなかった。紺田は自分の持ち場に戻って、相方と自分の実験を再開していた。
「ねえ、夜遊びって、何?」
 台座に肘を乗せ、頬杖を付いた格好で、古瀬が訊いてきた。金属板は振れが止まり、再びただ回るだけになっていた。
「いやだから、夜遊びなんかしてないってば」
「本当に?」
「本当だ。紺田の言うことなんか、そんな簡単に信じるなよ」
「紺田君は確かに変なやつだけど、嘘つきじゃないからねえ。それに、響助君の保護者だし」
「なんだその保護者というのは」
「紺田洋平によると、彼は環境省指定第一種井塚響助(いづかきようすけ)取扱主任者だそうである」
「またわけのわからない資格こさえやがって…」
 僕は少しうんざりしながら、金属板に手をかけた。回転が弱まりかけていた。
 
「でも、響助君のこといろいろ気にかけてくれてるのは事実だよ?」
「気にかけているというより…ただまとわりついているだけのような気もするんだけど」
「まあ、それは受け取り方次第かもしれないけどね」
 古瀬は、ノートの上に大きく×テンを描いた。さっきまで取っていた記録は、これで無効になった。
「でも、夜遊びは控えた方がいいんじゃない?」
「だから、それはやつの作り話で」
 そう言いながらも僕は、心の中で不安を感じていた。もしかして紺田に、僕が毎夜行く場所、そしてそこで会っている人について、知られてしまっているのではないだろうかと。
 
 僕の記憶の中から、、前夜のことが思い起こされる。
 
 
 
 
「こんばんは」
 ドームの中で寝そべって星を見ていると、不意に視界が遮られた。肩から、髪の一部が垂れている。影になってはっきりは見えなかったが、それは野口毬音(のぐちまりね)だとすぐにわかった。
「…星、見えないんですけど」
「ええ。今日は、ちょっと意地悪してみてます」
 そう言われてすぐに思い当たった。ああもしかして、昨日の事かと。昨日は来なかったから。明確に言葉で約束したわけではないが、それでも僕がここに来るのは当たり前になっていたし、僕も彼女がここに来るのが当たり前のように感じていた。だから、唐突に来なければ不審に思うし、不機嫌にもなるかもしれない。
 起きあがる。かすかな光を頼りに、彼女の顔を見る。笑顔だった。そして同時に、怒ってはいないという安心感が広がった。根拠はない。ただ、心の中にそれが、注ぎ込まれるように浸透していった。
「ごめん。昨日は実験で遅くなっちゃってさ」
「うん、たぶん来れないんじゃないかって思って。だから実を言うと、私も昨日は早めに帰ったの」
「ああ、そうなんだ。ならよかった」
 彼女はスカートの後ろを少しだけ手で押さえ、そのまま膝を折って僕の隣に座り込んだ。それほど広くないドームの床。その中心に、二人で座る。見上げると、星一つ。二人でその一点を見つめる。
「星一つだけ見えるってのは、やっぱりちょっと寂しいものがあるわね」
「でも、それが味わいがあるとは思わないか?」
「味わいねえ」
「粋と言ってもいい」
「それはさすがに違うと思うけど…」
 
 薄く漏れてくる光の中で、毬音は苦笑した。
「あの星が、よほどお気に入りのようね」
「ま、そうかもな」
「理由なんか聞かせてくれると、ちょっと嬉しいかな」
「理由…ねえ。大したことじゃないよ」
「小学校の時にさ、星の観察ってやるだろ。でも僕の住んでた町って、都市郊外の住宅街でね、星なんか全然見えなかったんだ。で、あちこち見えそうな場所探し回って、やっと見つけたのが、あれ」
「ふうん。それで」
「そんだけ」
「…なんだ。素敵な恋のお話でも聞けるかと思ったのに」
「残念でした」
「せめて、『実はああいう趣味なんだよ』とでも言ってくれれば面白かったのにな」
「星が趣味って事?」
「ううん。うん、いいの。わからないならいい」
「…ごめん。もっとちゃんと勉強しとくよ」
「いいのよ、わざわざ勉強するほどのことじゃないし。それに」
 そこで彼女は一呼吸置いた。
 
「知らない方が幸せってこともあるしね」
 知らない方が幸せ。その言葉を口にしたとき、何故か彼女の顔がひどく寂しいものに変わった。そう思えたのは、気のせいだろうか。
「ねえ」
「なに?」
「星、見てるだけ? 語りかけたりもするの?」
「さあ。独り言くらいは言ってるかもな」
 と言うより、星は言葉を返してくる事など無いのだから、語りかけているつもりでもそれは結局独り言ではないのか。そう思った時、彼女がそっと漏らした。
「そうね。星は生き物ではないから」
「ああ、その通りだ」
 そして天井の星を見上げた。二人はしばらく黙っていた。澄んだ空はゆっくりと、しかし明敏に時の経過を感じさせてくれた。そこにある全てには何らの違和感もなく、見える景色も、語る言葉も、自分が今ここにいるという事実も、全てが当たり前であるかのような、そんな感覚を抱いていた。
 そして波が峠を越す。
「んっ…?」
 その全てが当たり前ではない、それに僕が気づいた時。ドームを縁取る木の向こう、茂みの中から物音がした。
「蛇か!?」
 
 背筋に悪寒が走った。人の手がすぐ近くまで伸びているとはいえ、ここは森の中。小動物達の優先順位が高い場所だ。蛇が接近してくれば噛まれる可能性は十分にある。それがマムシやヤマカガシであれば、最悪死ぬ。戦って勝てば無論命は助かるし、それどころか地元紙の第2社会面に写真入りで載る事が出来るかもしれない。ああ、ちょっとした英雄だ。僕の脳が高速妄想演算を始めた。悔しがる古瀬。全校注目の的。集まる期待に、僕本来の力が発揮される。優秀さと、意外な経歴。強みは成功体験。そしてそこには、ずっとともに歩んできた人がいて。10年後、僕は。
 そこで時の経過は止まる。勝てる保証など、どこにもない事に気づく。おかしな蛮勇は不要。早々に立ち去った方がよいか。そう思い、半立ちになって、隣に座る野口毬音に目配せをした。彼女は動かなかった。
「えと。なんかいるみたいなんだけど」
 それに対し彼女は言葉で返答はせず、ただ目線と表情とで僕に意志を伝えてきた。わかってる、大丈夫、なにも心配はいらない。そう言っている気がした。そして目線は、音のした方に戻る。僕の目線も、同じ方向に移る。何も見えない。何も聞こえない。時が硬直し、不安がそれに縛り付けられたまま。
 ──おいで、少しだけ姿を見せて、この人を安心させてあげて。そんな言葉が聞こえた気がした。すぐ隣に座る人は、ずっと口を閉ざしたままだった。それを訝しむ僕の意識は、茂みの向こうから再び聞こえた音によって逸らされた。何かがいた。月明かりでかすかに見えるそれは、ウサギの顔に見えた。僕がそれを認識した時、隣の彼女が少しだけ頷き、そしてウサギに見えた小動物はさっと姿を消してしまった。
「なんだ、ウサギだったのか…」
 僕の心に安堵が広がる。そしてそれが飽和した時、直前の自分の言動が思考対象として抽出されてくる。蛇と間違えた事。おかしな妄想。そして逃げ出そうとする自分。全てを口に出したわけではない。それでも、顔が熱くなった。汗が出そうだった。そして、何も見たくない気分に襲われた。特に、今隣にいる人の事は。
「気にする事無いわよ。知らないものは、誰だって怖いと思うものだから」
 そう聞こえてきた。今度ははっきりと、隣の人の言葉として。振り返る。彼女は立ち上がったところだった。
 
「行こうか。今日のところは、長居しない方がいいみたい」
 そう言って彼女は、手を差し伸べてきた。立てないなら掴まりなさい、そういう意思の表れだと僕は解釈した。僕は少し迷ってから、その手を取って立ち上がった。ほのかな暖かさが感じられた。ほんの、一瞬。それでも鼓動が早まった。
「そのうち、お互い慣れると思うから」
 森を見渡すような目線で、彼女はそう言った。何に関してそう言ってるのか、そのときの僕にはわからなかった。
 
 
 
 
 
「あーん、またぼーっとしてる、もう!」
 古瀬の言葉で、僕は我に返った。確かに止めた記憶のある金属板が、またくるくる回っていた。記憶の残像が、流れるように後方に引いていった。
「実験の授業は、ちゃんと正しいデータとれるまで、二人とも帰れないんだからね。わかってるの?」
 古瀬の言葉に僕は、ただひたすら謝るしかなかった。
「すまん。つい、白昼夢に夢中になってしまった」
「それ、洒落のつもり? でも悪いけど、もう白昼じゃないわよ」
 窓から外を見たら、もう星が見えていた。どれがいつも見ている星なのか、見分けはつかなかった。
「ちょっと。また窓見たままぼーっとしたりしないでよ? 寝るなら家帰ってからね。妄想も同様」
 古瀬は怒っていた。
「全くだ。君たちが早く終わらせてくれないと、私も帰れないではないか」
 机の上に脚を投げ出した紺田が、偉そうに僕ら二人に語りかけてくる。
「「カエレ」」
 二人の声が同調する。それを聞いた紺田は、少しだけ顔を上げてニヤリと笑った。
「あんたは自分の分とっくに終わってるんでしょ。さっさと帰れば?」
「そうはいかないよ、大親友が苦しんでいる姿を後ろに自分だけ逃げるなどと言う卑劣な真似は、僕には出来ないからね」
「ああ、そうですか。じゃあ好きにすれば」
 苛立ち気味の古瀬を前にして、僕はおびえて何も言えなかった。紺田は黙って両手を広げ、そして脚を投げ出したまま漫画雑誌を読み出した。
 結局その日は、21時過ぎまでかかってしまった。ドームには、誰もいなかった。
 
 
 
2.
 
 彼女に初めて会ったのは、一月程前のことだった。
 僕は、夜の大学構内を歩いていた。大学と言っても、そこは殆ど森、否、はっきり完璧に森であった。数年前に、ここにあった原生林を切り開いて博覧会が開かれた。ただし、、自然破壊との批判を免れるために建物と道路以外の部分は木を切らず、虫食いのような形で造成工事が行われた。そして博覧会終了後、その跡地に作られたのがこの緑丘総合科学大学(みどりがおかそうごうかがくだいがく)である。だからこの緑大の構内は、殆どが手つかずの森になっている。
 簡素に造られた道を少し外れれば、もうそこは深い森になってしまう。森の中は、人気がない。そして、街路灯もない。標識もない。そんな中を僕は、月光だけを頼りに歩いていた。それでも森の中は、意外なほど明るく感じられた。
 木々が林立し蔓草が這う森。傍目には同じような所ばかりに思える森。それでも注意を払えば、場所によってそれぞれ趣が違うものだ。古木の虚、枕木のように這った大木の根、根元に生えた茸の大群。そんな中でも、僕の特にお気に入りの場所があった。
 東に山毛欅、西に櫟。そしてその二本の木から展開するように、輪を描いて木立つ橿。
 ちょうど木に囲まれた、天然のドームがそこにある。
 ドームの中央に寝そべると、その目線の先に、ぽっかりと枝葉のない部分が表れる。そこから見える、一つの一等星。ただその星と星座の名を知っているだけで、その星座が、どんな神話に基づいているのか、僕は全く知らない。それでも僕は、その星を見るのが好きだった。たまたま見つけてしまった偶然、自分だけが知っていること。それはまるで子供じみた宝物だったけど、見上げた星から届く光は、僕の心に満足感を注ぎ続けていた。
 深緑の中に暗く開いたのぞき穴から星を見る。例えばあの星にも生命の存する惑星があったとして、彼らは今、自分たちの太陽が遠い星から覗かれているなどと、考えるだろうか。そして僕もまた、名も知れぬ遠い世界の人から、興味深げに観察されているのだろうか。そんなことを考えていた。
 
 風が、吹いた。そしてその瞬間僕は、人の気配を感じ取った。
 …まさか。この時間のこの場所に、僕以外に人がいるなんて。想像もつかないことだった。
 確かにここは大学の構内である。建物の中には、夜遅くまで、そして朝まで泊まり込む人もいる。だけど、メインストリートからかけ離れた、普通の人間にとっては何の用もないようなこの場所に、人が来るということが。しかも、こんな夜中に。
 しばらく、じっとしていた。狩人の気配を察知し、穴蔵の中で息を潜めるうさぎのように。しかし、そうしていても、誰かがいるのか、こっちに近づいているのかという事はわからなかった。そもそも、特別に聴覚や嗅覚が優れているわけでもない自分に、今現在目に見えない存在を関知するなど出来ない。こっそり後ろから近づかれて目隠しをされてしまう事だってよくあるのだ。
 ではさっき感じた人の気配というのは、一体なんだろう。少し強めのそよ風が、誰かがいるという錯覚を起こさせたのだろうか。だとしたら、多少なりとも疲れているというか。そんな分析をしながら、空を見上げる。突き抜けるような闇の中に、光の点々が見える。無限遠。そしてポテンシャルの対象は自分。感覚が増幅される、そんな気がした。
 そして再び、風が吹いた。
 探してみよう。そう思い、身を起こした。全くあり得ないわけではない。それにここは立入禁止というわけでもない。僕みたいな一風変わった趣味を持つ人間が、他にもいる可能性だってある。もしそうなら、それはきっと自分にとって話の通じる相手。数少ない自分の仲間、だ。
 僕は立ち上がって、ドーム上の木立に沿って周回し、脇道に入って辺りを見回した。所々に、泥濘(ぬかるみ)が残っている。そういえば、昨日は雨が降ったんだっけ。ここを歩き回ったとすれば、足跡が残っているはずだ。草や木の根が覆っているとは言え、靴に泥が付くのを免れることは出来ないだろう。そう、それは寝転がっても同じ事で、もし今この場所でごろりと寝転がったりすれば、背中には確実に大地の染色が施されてしまうだろう。
 でも、あの場所は大丈夫。僕は、振り返ってドームの中を見た。枝が空を覆っているおかげで、地面に雨がかかることはない。そして何故だか、生えている草も、その密度が違う。まるで芝生のようだ。だから、あそこの中であるなら、心おきなく寝転がることができる。僕は再び、ドームの中に戻った。中心部は、星と月の光で少し明るい。
 
 風。そして、人の気配。
 やっぱり誰かいる。誰だろう。そう思った僕は、そのまま辺りを見渡してみた。0時方向。いない。3時方向。いない。6時方向。いない。9時方向……。
 そこには、一人の女の子が立っていた。
 とりあえず、黙っておく。向こうも黙ったままだ。逃げ出すような素振りはない。僕を捕まえようという感じでもない。ただ、多少興味深げにこっちを見ている。
 僕は、どんな顔をしておけばいいのかわからなかった。とりあえず、無難に笑っておくことにした。ちょっと引きつったような笑いになっているのが、自分でも判った。
 そんな僕に、彼女は微笑みかけてくれた。大丈夫、ちゃんとわかってるから。そう言われたような気がした。
「……」
 背中が痛くなってきた。よく考えたら、僕は今、背中を270°もひねっているのだ。自分でもよくこんなに曲がったものだと思うレベルだ。紺田から酢酸と蜂蜜をたくさん摂っておくようにと言われていたので、何となく実践してしまっていたが、こんなところでその効果が現れたということだろうか。
 とりあえず、姿勢を正常に戻す。はずだった。が、勢い余ってバランスを崩した僕は、次の瞬間大地と接吻の儀式を行っていた。
「…う〜、くっそ〜」
 起きあがろうと、まず顔を上げた俺の目に、差し延べられた手が映った。
「…ありがとう」
 とりあえず礼を言って、その手を取ろうと思い手を伸ばしたところで、僕の中でくぎっという音が鳴った。背中に走った痛みに、思わず体を支えていた左手をずらしてしまい、再びバランスを崩して、倒れ込んだ。
 
「ふふっ」
 …醜(しゆう)態(たい)だ。かっこ悪すぎる。しかも、初対面の女の子の前で。僕は倒れ込んだまま、顔を地面に向けたまま、動くことが出来なかった。体が動かないのではなく、心が体を動かそうとしなかった。恥ずかしさのカルシウムが、心の中に殻を作り出していた。
 その心の中で、そっと温かい手が触れた気がした。驚いて振り返ると、そこには本物の手があった。否、それはさっきからそこにあった。
 とりあえず助けを借りて起きあがった僕は、もう一度礼を述べた。
「どうもありがとう。恥ずかしいところを見せてしまいました…」
 女の子は無言で、しかし笑ってそれに答えた。心の中に、淡い光が灯ったような感覚があった。
「ここに、何しに来たの?」
 僕は、立ち上がり服をはたきながらそう訊いた。服には泥も埃も付いてはいなかったが、何となく体裁を取り繕うためにそうしていた。それに、初対面の女の子の顔を正面から見つめるような行為は、僕には出来なかった。
「あなたは?」
 逆に、問い返す言葉が、答えの代わりに戻ってきた。僕の頭の中でいくつかの回答が並べられた。その中から僕は、この場にもっともふさわしいと思った答えを選んだ。
「星を見るため…かな?」
「星…」
 女の子はそう言って、上の方を見上げた。その目線の先では木の葉と枝が天井を覆い、回(かい)折(せつ)した光が淡く漏れ込んでくるだけで、空は見えはしなかった。
 
「ああ。ほら、南の方の、あそこ。ちょうど枝が被ってないだろ。あそこから、星が見えるんだ」
 そう言って僕は、彼女の後ろ側にある、枝が伸びていない穴の開いたようになった部分を指さした。
「そう。そっか、これを見てたんだ」
 女の子は手を後ろ手に組んで振り返り、そしてそのまま右回りをして向き直った。
「でも、これを見るためだけに、わざわざここに来てるの?」
「だけって事はないけど。まあ、主目的、かな」
「変わった人ね」
「…ま、そうかもな」
 誰か他の人間、たとえば古瀬や紺田辺りに言われると、それはカチンと来る言葉であった。否、彼らならまだいい。もっと別の、まだ会って幾日も経っていないような人間にそれを言われる、その不快さと悔しさを、僕は何度も味わっている。でも今、この目の前の少女にそれを言われても、僕は何らの不愉快さも感じなかった。
「で、君はなんでここにいるの?」
「私?」
 女の子は振り返って、僕の顔を見た。少し長い黒髪。それに光が反射して、撥ねているようにすら見えた。綺麗だな、と思った。
「そうね…。ちょっとした見回り、かな」
「見回り…!?」
 その言葉に、僕はぎょっとした。
 
「もしかして君、…学園警備隊の人?」
 この大学には、学園警備隊という妙なサークルがある。いわゆる自治会や警備のアルバイトというのとは違う。完全に自分たちの意志、もっと正確に言うならば自分たちの趣味として、この大学の治安を守っていこうという連中だ。
 もし学園警備隊だったら、隙を見て逃げよう。別に悪い事をしているからというのではなく、単に彼らと関わるのが嫌だった。
「ううん、違うの。そうじゃなくて」
 あからさまに不安の表情を見せていた僕に、彼女は念を押すように違うという意思表示をした。
「ここは、私の庭、だから」
「庭!?」
 僕はぎょっとした。安心したのは束の間だった。てっきり大学の敷地内と思っていたこの場所だが、もしかしたら誰かの私有地だったのか。自分はいつの間にか不法侵入、そして不法占拠をやらかしていたのか。
 この一帯の土地の大半は、元々は県有林だった。そこを一部切り開いて博覧会が開かれ、終了後は大学になって、土地も大学のものになった。が、一部だが私有地だったところもあった。そして、博覧会の開催に反対する人たちが土地や立木を細切れに買い取って抵抗運動をしていたとも聞いている。そういった土地の中には、最終的に買い取られること無く終わり、今でも大学の敷地の中に点在しているものがある。ここも、そういった私有地の一つだったのか。
 僕は、頭の中で必死に言い訳を考えていた。だって、私有地だなんて知らなかったんだ、看板も何もなかったじゃないか。他の私有地はみんな、有刺鉄線こそ無いものの、境界線の標識が埋め込まれていたり当時の経緯を説明した看板が立っていたりで、少なくとも大学の敷地でないことは判っていた。でも、ここには
 木々が、ざわめいている。ふとそんな気がした。焦点が戻り、ちょっと困ったような顔をした彼女の姿が見えた。思考が、また現実に戻る。
 
「ごめんなさい、そういう事ではないの」
 彼女は、手を前に組んでいた。星を背にして、また僕の方に向き直っていた。
「ずっと昔から、ここで遊んでいたから。ほら、そういう言い方するでしょ、自分の庭みたいなものだ、って」
「ああ、…」
 そういうことか、そういうことか。緊張でつながれていた力が、僕の体中から抜けていった。
「言い方が悪かったわね。言葉って難しい」
 そう言って彼女はまた、星の見える方角を向いてしまった。草がざわめき、風が同心円上に吹いた。その時、何かの声が聞こえた気がした。
「?」
 僕は、声の正体を確かめたくて、反射的に周りをきょろきょろしていた。誰もいなかった。僕と、目の前にいる女の子以外は。
 彼女は、手を後ろ手に組み、何かの音楽でも聴いているかのように、黙ったままそっと目を閉じていた。そしてまだ、声は聞こえ続けていた。はっきりとは聞き取れない、否、正確には意味を理解できない、そう、それはまるで、どこか遠い外国の歌のようにも聞こえた。
 優しい、歌。僕はそっと耳を傾けた。言葉としての意味はわからなくても、なにか伝わってくるものがあるように思えた。親しみ。歓迎。好意的な感情が僕の心を満たした。初めてなのにはじめてではない、そんな事を思ったとき、再び女の子は、僕の方に振り返った。
「だってあなたは、ずっと前からここにいたんだもの」
 
 それはどういう意味、僕が問いかける前に、彼女は次の言葉を継いでいた。
「これからも、ずっとここにいるのかしら?」
 それは、何かの期待を込めた言葉のようにも聞こえた。歌はもう聞こえない、だからそれは、僕の勝手な思いこみだったのかもしれない。それでも僕は、その期待に応えるつもりで言った。
「また来る。きっと、ここにいる」
「そう」
 彼女はそう言って、目を細めて笑いながら辺りをぐるりと見渡した。
「よかったわね」
 それは誰に言っているのか、まだ判らなかった。判らなかったけれど、その時は、それを不自然だとも思わなかった。むしろ、そうする事の方が自然とすら思えた。
「今更だけど、私は野口毬音(まりね)。文理の2年。あ、もちろん緑大のね」
 その言葉で、僕は現実に引き戻されたかのような感覚を持った。今までまるで夢見心地のような感覚で話していたけれど、なんだ、この子は僕と同じ世界に住んでる人だったんじゃないか。
「僕は、井塚響助。文理の、自然学科の2年」
「そう。こんなところも、似たもの同士だったのね」
 彼女は笑っていた。僕も笑い返した。森は静かに時が流れていた。
 
 
 
3.
 
 寮の食堂で僕は、早めの夕食をとろうとしていた。早めの時間にしたのは、この後出かけるつもりがある、それもあるが、それ以上に時間を誤ると食堂が異様に混んでしまうという事もあった。
 食堂に入ると、左手にカウンターがあり、厨房から突き出されるように皿が並べられている。その中から、カルビチャーハンを選び取ってトレイに乗せた。3列あるレジは、左の一つにだけ2人並んでいる。残り二つ、天井から「まるぱす/おんりぃ」という看板が吊されているレジには待ちはない。緑大は運転免許証等の身分証明書を使った統合身分決済プロジェクト「まるぱす」に参加しているので、学生証一枚あれば食堂や購買の支払いも出来るし、精算も早い。それでも尚現金に固執する人間はいるもので、おかげで現金が使える唯一のレジは、昼時には酷い混雑になる。
 敢えて並んでまで現金で払う必要など無い、僕はそういう考えの人間なので、残りの内の中央のレジに行き、トレイをレジカウンターの上に置いた。レジの人が、丈の低い位置にある覆いの下までトレイを進める。280円という金額が表示されると、僕は学生証を取り出して、覆いの下にあるスキャナにかざした。ピッ、という音。
「はい、ありがとうございました」
 レジの人の声に呼応して、僕はトレイを持ち上げた。目の前に並ぶ、大量の椅子と机。空きは多いとも、少ないとも言える状態。4人がけのテーブルに一人で座り黙々と食っている、そんな奴が多いからだ。かく言う自分も、数分後にはそうなっているだろう。利用効率が悪い、エントロピーの非常に高い状態です。そんなことをこの間の授業でやったな、そう思いながら、誰も利用していない席を探した。がたりという音がして、男が一人席を立つ。離れたのを見届けてから、彼が座っていたのとはす向かいの位置に腰掛けた。
「やれやれ…」
 大した仕事をしたわけでもないのに、そんな言葉が出てしまう。もっと遅い時間、もう少し混んでいる状態ならば、却って何の遠慮もなく誰かが食っている隣とか向かいに座れるのかもしれない。しかしごくたまに、座れなくなる程混んでいるときがあって、そういうときはトレイを持ったまま食堂の仲を流浪の民としてさまよわなければならなくなる。それはかなりいやだ。
 この食堂は、学寮の住人以外からは殆ど利用される事はない。そして、4人がけの席が150、計600人が収容できる広さがある。決して狭いわけではない。にもかかわらず、時として満席になるくらい混んでしまうのは、人という生き物が「決まった時間に飯を食う」という習性を刷り込まれてしまっているからだろう。
 
「悲しい習性だよな…」
 天井を仰ぎながら、ついそんな事を呟いていた。実際のところ本気でそう思っているという自覚はないのだが、口に出てしまうという事は案外本気なのかもしれない。という事は僕は、人が悲しい生き物だという心理に支配されてしまっているのだろうか。だが、たかが飯ごときで人という生き物を否定するような考えは如何なものか。否、たかが飯と言うが、生命活動の基本は飯を食う事であるのだから、この行動の正当性を考える事は生命種そのものの価値を論じるに等しいものであり
「ねえ。それ、そんなに辛い?」
 声をかけられて、はっと我に返った。目の前にある食べかけのカルビチャーハンにはスプーンが突き刺さったままになっていた。そして横、声のした方を向くと、そこには古瀬智羽が立っていた。
「ずーっと、上向いちゃって。そんなに辛そうに見えないけど、実は大穴?」
 大穴の意味するところの詳細はよくわからなかった。が、要するに、あまりの辛さに食べかけでずっと天井の方を向いたりしていたと思われた、という事だろう。
「いや、決して辛いわけではない。ただ、ちょっと考え事をしていただけだから」
「そう。何の考え事?」
 古瀬は、僕の隣にある椅子に手をかけながら訊いてきた。隙あらば隣に座って来かねないかのような素振りである。油断ならない。僕はその椅子の背もたれに、ごく自然に見えるように左手を添えた。こうすれば、簡単に椅子がひかれてしまう事もないだろう。
 古瀬はその左手の存在に気づいたようだった。ちらりと目をやってから、ふふんと笑顔を見せた。僕も笑顔で返した。
 数秒間の、笑顔と無言の応酬。無意味な緊張感が高まっていくのが、自分でわかる。それでも左手は動くことはない。そして古瀬は視線を僕の顔に戻し、少し屈むようにして、言った。
 
「響助君、えっちな事考えてたんだ」
「な…!」
 何でそうなる。そう叫びたかった。が、少ないとはいえ人の結構いるこの場所で、あまり大声は出せなかった。僕はぐっと気持ちを抑えて、出来るだけ平静を装って答えた。
「いくらなんでも、食事中にそういう類の事を考えるほど、僕は忙しい人間ではないぞ」
 やはり平常心というわけにはいかず、あまり理にかなった返答は出来なかった。
「食事中でなかったら、しょっちゅうそういう事を考えてるわけだな」
 古瀬は既に隣の椅子に座り込んでいた。僕の左手は、一矢報いる事すらかなわず、無抵抗に後ろに押しのけられていた。古瀬はどこかに向かって手を振っている。誰かを呼ぶつもりらしい。どういうつもりだ。この女、図々しく隣に座ってきたあげく、さらに仲間を呼ぶつもりか。
「もしや、僕のことを取り囲んで集団でいぢめるつもりか」
「は?」
 手を挙げたままの古瀬が口を開けたままで振り返る。どうやらはずれだったようだ。古瀬は挙げていた手を下ろし、こちら側に身を乗り出してきた。
「なに、いぢめてほしいの?」
「そんなわけあるか」
「じゃあ、何。何で突然さっきみたいな言葉が飛び出してくるかな?」
「常に古瀬が僕に何かするんじゃないかと不安なんだ」
「あたし、なんにもしてないでしょぉ」
「してるだろ。さっきだって、その、えっちなこと考えてるとか…」
 
 最後の方は、口ごもってしまって殆ど言葉にならなかった。はっきり言えなかったことと、その言葉の意味自体が相まって、僕の中に恥ずかしさがこみ上げてきた。無意識のうちに、古瀬から目を逸らしてしまう。
「そうでも言わなきゃ、座らせてくれそうになかったからなんだけど」
「そう、でもないけど…」
「そう?」
「そうだよ。隣に座るくらいで、そんな」
「隣はいいんだ。じゃあ」
 古瀬は、ほんの少しだけ考える仕草をして、言った。
「膝の上とかは?」
「…だからさ。何でわざわざ、そういう人を惑わすような事を言うわけ?」
「そういうわけじゃないよ。ほら、あとから3人来たら一人は椅子に座れないじゃない。だからね」
「で、そういう事してこっちが躊(ちゆう)躇(ちよ)している間に、別の一人が貴重な食料をかすめ取ろうという魂胆か」
「あ、それいいね」
 古瀬は本気っぽく驚いて見せた。僕は少々鬱(うつ)になった。目の前には食べかけのカルビチャーハンがあった。僕は少しでも抵抗の意志を示すために、古瀬に背中を向けてチャーハンをがつがつと食べ始めた。下手に話をしていると、どんどん翻(ほん)弄(ろう)されてしまう。それに、時間が経てば冷めてしまう。さらに最も重要なことに、古瀬が本気でこれを奪おうと考えていることもあり得る。だが、食べきってしまえば、奪われる事はない。普通は。
 
 古瀬の目の前に誰かが座るのが、気配で感じ取られた。誰か知っている人物のような気がしたか、気のせいだと思いこむ事にした。意地を張って、気づかないふりをしていた。チャーハン残り4口、急げば40秒ほどか。食べ終わったら速攻で逃げよう。そう思って、一山をスプーンでかき込もうとした。二人が何か会話しているように聞こえたが、意図的にそれを聞き流していた。そのうち声がしなくなる。会話がとぎれたのか、そう思いつつも、なおも無関心を装い続けていた。
「響助君ったらえっちな事ばっかり考えてるのよ、毬音」
「ぶっ!? えほっ、げほげほっ」
 思わず僕は口の中のものを吹き出してしまった。呼吸の急激な変化に、気管支が痙(けい)攣(れん)を起こしている。
「ぜーっ、ぜーっ、ぜーっ、ふーっ」
 ひとしきり深呼吸を終え、呼吸が落ち着いたところで、ゆっくりと頭を回して古瀬の向かいに座っている人物を見る。見慣れた、落ち着いた笑顔が見えた。それは紛れもなく、野口毬音その人だった。
「もう大丈夫?」
 野口毬音は落ち着き払った声で、そう訊いてきた。それはきっと本心、そう思えた。その声を聞いただけで、僕の中に平常心が戻ってきた。
「ああ、僕はもう大丈夫」
 手近にあったコップをとって、中の水を一気に飲み干す。多少胃に悪そうだが、さしあたり気分を落ち着ける事の方が先決と判断した。実際、それで冷静な思考が出来るまでに回復できた。訊くべき疑問も絞られる。
「ところで、何故あなたがここに?」
「智羽に呼ばれたから」
「そうなんだ」
 そうかそうかと口には出さず納得する。とりあえず。とりあえずは。
 
「古瀬とは、知り合い?」
「うん。同じ学科だし」
「え?」
 僕は一瞬戸惑った。野口毬音が、僕と同じ学科? 疑問が脳を駆けめぐって記憶の底にまで突き抜け、そして僕は一つの事実を思い出していた。ああ、そういえば、古瀬は自分らと学科違ったんだっけな、と。
 同じ文理学部ではあるが、僕は総合自然科学科、古瀬は認知情報科学科に所属していた。が、同じ授業で頻繁に古瀬と顔を合わせるために、まるで同じ学科の同級生であるかのような錯覚をしていた。それは古瀬が無闇に自分の所属する学科以外の授業を取りたがり、中でも他学科学生の受講を積極的に受け入れている総合自然科学科の授業によく出没する、その為だった。1年生の頃からずっとこうだったため、今では何の抵抗も違和感もなく総合自然の一員として認識され、イベントや特別授業などがあって名簿が作成されると、必ず正規の学科メンバーに加えて、彼女の名前も載せられていた。
 だから僕は、たった今まで古瀬が自分と同じ学科なんだと勘違いしていた。
「あたし、ほんとは認知情報だよ?」
「いや、わかってる、わかってる。当然わかってるからな?」
 少しでも古瀬に隙を見せるのが嫌で、僕は必死に、今思い出したばかりの情報をあたかも忘れようのない常識が如く振る舞った。
「うそだ。響助君、あたしのこと誤解してた。ありのままのあたしから目を背けてた」
 古瀬は意図的なのか何なのか、なかなか信用しようとはしなかった。視線の片隅に、この様子を微笑ましげに眺めている毬音の姿があった。僕は救いを求めるように、彼女に視線を流した。
「そうね…とりあえず、結論として。私と智羽は認知情報で、井塚君は総合自然。これは常識。だから今後忘れないこと。忘れたら最後の一人を簀巻き。ということで、手を打たない?」
 
 手打ちとかそういう問題とは違う気もしたが、あまり細かいことにこだわるつもりはなかった。と言うか簀巻きとか最後の一人ってなんだ。
「僕はそれでOKです」
「…」
 古瀬は、何も答えなかった。
「智羽?」
 野口毬音は促すように、古瀬に問いかけた。
「う、ううん、あたしもそれでOK、なんだけど…」
 古瀬は、僕と野口毬音の顔を交互に見て、言った。
「あなた達、お知り合い?」
「はい、お知り合いですよ」
「ああ、そうですか…」
 何のためらいもない、さも当然であるかのような回答。そのまま微笑んでいる野口毬音に対し、古瀬は次に出すべき言葉を迷っているようだった。その声は聞こえない。何を言えばいいのかわからないのか、言いたいことがあるけど言うべきかどうか悩んでいるのか。それは僕にはわからなかった。
 そして何かが、意識の中に流れ込んできた。それが何であるか、すぐには認識できなかった。頭の中で反芻するうちに、それは自分の中で言葉へと変換されていった。
『二人は、どういう関係?』
 
 え、と僕は小さく声をあげて、古瀬の方を見た。それが古瀬の言葉であるかのように思えたからだ。ただ耳から聞こえたという感じではなく。別のところから来た意志が、自分の中で言葉に変換されたような。少し妙な印象があった。そして実際、古瀬が僕か野口毬音に何かを問いかけた様子はない。まだ何かを迷っているような表情だった。
 じゃあ何なんだろう。表層意識にはないけれど、自分では古瀬の一挙一動が気がかりで、思い詰めて、勝手に自分で結論出して、そしてそれを古瀬の言葉としてすり替えてしまったんだろうか。
 だとしたら少しおかしい。疲れてるかもしれない。思い当たる節はいくらでもあるし。毬音には悪いが、この話が終わったらさっさと退散して二時間くらい寝ることにしょう。そこまで予定を決めたところで、古瀬が口を開いた。
「うーん、お二人はどういう関係かな?」
 再び僕は、え、と声をあげて、古瀬の方を見た。さっき感じた、自分の思いこみの言葉と同じだ。今度は間違いなく、本物の言葉として。ということは、何だろう。もしかして、さっきのは思いこみではなかったということだろうか。全ての動物に備わっていると言われつつも未だ解明されていない危機探知能力、第六感というやつだろうか。
 そうすると今の古瀬の言葉は、僕にとって非常に危険なものだということになる。いや実際、回答如何では、僕の立場は非常に危ういものになるかもしれない。古瀬が実は野口毬音に惚れ込んでいて、「毬音姉様はあなたみたいなヘタレなんかに渡さないわ!」とか言い出してこの食堂が凄まじいまでの修羅場に変貌してしまうかもしれないのだ。そしてこの食堂には僕の弁護をしてくれそうな人間はおそらくいない。否、いないならともかく、紺田あたりがどこからともなく登場して、訳のわからん弁護を始め出すかもしれない。そうなったらもう目も当てられない。
 野口毬音には悪いが、話が終わる前に逃げよう。そう予定を変更し、僕は席を立った。
「あっ、ちょっとどこ行くの!」
「ごめん、ちょっと二時間くらい寝てくる」
 
 抗議の声を上げる古瀬は無視し、野口毬音にのみ、すまなそうな顔をして弁解の言葉を述べた。
「あたしの質問、回答まだなんだけど。もしかしてそれから逃げる気!?」
 
 そうです。
 
「そうなの? そうなのね! 毬音、あんなヘタレやめときなよ!」
 やっぱりこいつ、僕のことをヘタレと思ってたんだなと思いつつ、でも彼女の前でそんなこと言って欲しくないなという考えがよぎり、そして、あれ古瀬はいったい何を言っているんだと気づき、立ち止まり、振り返った。
「ヘタレじゃない。お友達」
 そこには、真剣な表情で友を諭す、野口毬音の姿があった。
「ヘタレと友達は相反しないと思うんだけど…そう、友達なのね」
 なんだかぐったりした表情で、古瀬は腕をテーブルの上に投げ出し、その中に顔を埋めてしまった。
「あー、なんか疲れた…。響助君、何か飲み物買ってきて」
「自分で行けよ」
「あたし疲れてるの。響助君立ってるじゃない。ついでに行ってきてよ」
「僕だって疲れてるんだ、さっき帰って二時間寝るつもりだと言っただろう」
「そういう事言うなら今夜は寝かせない。二時間寝て夜眠れないのと、一晩ぐっすり寝るのと、どっちがいい?」
 とんでもないことを言い出す。僕は困って、毬音の方をみた。
「しょうがない。私も行くわ」
 
 そう言って野口毬音は立ち上がった。「も」ということは、結局僕も行かなければならないということらしい。
「それでは問題解決にならないと思う」
「そうかしら? 一人でパシらされるという汚名は免れると思うけど」
「でも古瀬の躾(しつけ)にならないぞ」
「そうね。でも、友達ですから」
 口調も、表情も軟らかかった。が、何となく有無を言わせぬ意志が、そこには込められているように思えた。そして野口毬音は僕の手を取り、付け加えた。
「あなたも」
 その行為に、心臓は大きく鼓動した。そして僕は必死に、その感情を全否定する方向に、思考を導いていた。違うだろ、そうじゃないだろ。友達だって言ったんだ。そう、二人は友達。いや、3人で友達という意味かな?
 言い聞かせているうちに、心臓は収まっていた。感情制御、成功。そしてその間に、二人はカウンターに向けて歩き出していた。改めて、隣を歩いている人を見る。そう言えば、日中にこうして二人でいるのは初めてだったかな。そう思うと、さっき押さえたばかりの感情がまた起き出しそうになった。それを振り払うように、半ば反射的に、僕は話しかけていた。
「あのさ、野口…さん」
「呼び捨てでいいのよ、響助くんっ」
 なぜか両手を後ろに回した仕草で、野口はそう答えてきた。
 
「あの、それ…誰かの真似?」
「うん、…いけなかったかしら?」
「いけないというより…微妙に違う」
「そうなの…。慣れないことはするものじゃないわね」
 そう言って野口は、ふふと笑った。今までも見た顔だけど、それでも僕はそれをみて、野口との距離が縮まったような、そんな印象を受けた。
『ま、しゃあないか』
 僕は振り返って、古瀬の方をみた。古瀬はテーブルに突っ伏したままだった。
 
 
 
4.
 
「今日も星が綺麗になりそうだな」
 まだ明るさの残る空を見上げながら、誰かに言い訳するかのように僕は歩いていた。決して悪いことをしに行くわけではないのに、しかも周りには誰もいやしないのに、そこに行くのに何か別の理由をつけておかなければならないような、そんな奇妙な感覚があった。それは、もしかしたら一種の予感だったのかもしれない。
「困りますよおじいちゃん、こんなところを徘徊されたら」
 横から突然かけられた声にどきっとして、反射的にその音源の方を向いた。街路灯と残り陽の双方の光に照らされて、紺田洋平の姿が現れた。
「ま、しかし、君がおじいちゃんと呼ばれるには、今までのあと3倍人生を過ごさなきゃならないけどな」
 彼は無意味に空を見上げながら、そんなことを呟いた。いや、無意味かどうか、正確にはわからない。彼の考えることは、僕には解らないから。だが少なくとも、今の僕の目には、彼のその行動は無意味に見えた。
「何の用だよ…」
 僕は警戒しながら問いかけた。別に今に始まったことではない、彼はどこか、というよりどこでも、何をしでかすか解らないところがあるから、いつも警戒を怠ってはいけない。過去1年あまりの経験から導き出された教訓だ。
 2mに満たない距離。それを置いて、二人は対峙している。その脇を、まるで関わり合いになるのを避けるかのように、授業を終えた学生達が通り過ぎてゆく。誰も助けてくれない。ふと、そんな考えがよぎった。助けを求めるほど深刻な事態になるとも思えなかったのに。何かを焦っているのだろうか、自分は。
 
 その心を知ってか知らずか、紺田がようやく口を開いた。
「いや、特に何の用ということはない。ただ、空を見つめながら道を歩く君の姿を発見してしまったものでね」
「空を見つめている人間がいたら無条件で寄ってくるのか貴様は」
「無条件じゃない。空を見つめ、且つそれが井塚響助であった場合だ。人の話はちゃんと聴きたまえ」
 そこでふんぞり返る紺田。無意味に。少なくとも自分にとっては。
「僕としては、そういう条件で接近して欲しくはない。敢えて言うならば、AllFalseにして欲しいくらいだ」
「酷い言い方だな。君は僕と関わり合いになりたくない、そういう風にも取れるぞ」
「実際正直言ってその通りだ」
「わからないよ。どうして君は、そんなにボクのことを邪険にするんだい?」
「胸に手を当ててよく考えてみろ」
 緩んでいた紺田の顔が引き締まる。何かを思い詰めたような。顔は俯き、視線が僕の目線からそれた。そして彼の右手がそっと動き、上がり、僕の右胸にあたる。服の上から、紺田の手の感触が伝わってくる。いつもより1オクターブ高い声で、紺田がそっと呟いた。
「響助君の。心臓の音、トクトク言ってる」
「な、な、な、なにしやがるこの変態!!」
 力の加減も無しに胴をひねり、右手で紺田の手を振り払った。咄嗟の行動に血流が荒くなり、息が激しくなる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、…」
 
「そんなに興奮するなよ」
「ちゃうわっ!」
 そう言いながら僕は、必死で呼吸を整えていた。息が収まり、心臓の鼓動も静かになる。脳も落ち着きを取り戻し、視界を正常に処理し始める。足早に通り過ぎてゆく学生達の向こうに、1年生とおぼしき女子学生が3人ほど見える。彼女たちは皆、驚愕と憧憬の入り交じった目でこちらを見ていた。一人は、両手が口元までいってしまっている。そして彼女らは、僕の視線に気づくとそそくさと立ち去ってしまった。
 きっと、誤解された。そう考えると、とても鬱になった。
「響助君は下級生が好みか…」
 視線で彼女たちを追いながら、紺田がそんな事を口走った。こちらは、誤解なのかわざとなのかわからない。
 落ち着きを取り戻した僕は、その言葉は無視して言った。
「用がないなら、僕は行くよ。別に徘徊というわけじゃなくて、大事な用があるんだ」
「ほう」
 紺田のかけた縁の薄い眼鏡が、きらりと光った気がした。否、実際光ったのだろう。街路灯の光路と僕の位置との間の角度を瞬時に計算し、僕の目に一瞬だけ光が眼鏡の縁に反射するように、体を微動させて。こいつはそういう、訳のわからん特技をいっぱい持っている。
「大事な用とは、一体なんだね? もしかして君の身の安全に関わることではないだろうね? もしそうなら、変な遠慮をせずに、この私に相談を」
「いや、遠慮してない。してないから」
 早く解放して欲しかった。
 
「君は普段から、無意識のうちに他人に遠慮してしまう癖を持っているからね。いわゆる引っ込み思案というやつだな。だからこそ私は、こうして普段から君の行動に目をかけているわけだが…」
「……」
 いっそ、何も遠慮せず、あっち行けしっしっと言ってやりたかった。
「それにもし、君が恐喝や悪徳商法、宗教勧誘の類に巻き込まれているのだとしたら、私としては放置しておけないからね。学園警備隊が構内を巡回しているとはいえ、そういった悪の意志を持った人間が、どこの闇に紛れて学生を食い物にしているか、わかったものではない」
 学園警備隊。その言葉で、僕ははっとした。
 彼らに捕まると少々やっかいだ。例えば、構内で歩き煙草をしている奴がいたとする。そんな人間を発見すると、彼らは警笛を鳴らして仲間を呼び、取り囲んで小一時間問いつめるのだ。
 勿論、今はそんな問いつめられるような悪いことをしているわけではない。しかし、もし彼らに疑いを抱かれるようなことがあったら。何ら罪のないことを、彼らに説明しきる自信は僕にはなかった。彼ら学園警備隊は、弁論部の人間をすら黙らせてしまうほどの弁舌力と理論武装を備えている。そんな連中に、僕などがかなうはずがない。
 天を仰ぐ。まだ街路灯のつき始めた時間とは言え、夜中に、路上で、こんな訳のわからん人物と意味不明な問答をしているところを、奴らに見つかったら。彼らに、構内での争い事と勘違いされたら。
 仲裁と称して問答無用でサークル等の彼らの拠点に連れて行かれ、話し合いと称して向き合って座らされ、腹を割って話すためと称して酒やらまずい煎餅やらを差し出され。
 そういう目にあった奴を、僕は知っている。あまり親しくはなかったが、同じ授業を取っていた奴だった。まだ若かった。サークル棟には他にも人がいたが、誰も彼を助け出すことは出来なかった。みんな、自分の身を守るので必死だから。
 
 僕は紺田の方を見た。紺田ならもしかしたら、奴らと対等に渡り合うことが出来るかもしれない。だが僕には、とてもそんな実力はなかった。詰問されれば、例え言いたいことがあっても何も言い返すことが出来ず、ひたすら押し黙ったままになってしまう。たとえ紺田一人の実力で血路を開くことができたとしても、それまでに小一時間はつぶれてしまうだろう。解放されて森に行っても、もうそこには彼女はいないかもしれない。
「ごめん、紺田。事情はいつの日か説明するから、この場は行かせてくれ」
 そう言って僕は駆けだした。
 
 
 
 
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ、」
 ドームを縁取る木の一つに手をもたれかけさせ、僕は荒く息をしていた。全力で走ってきて、ちょっと酸欠気味だった。視界が霞む。それでも、ドームの中心に座り込んでいる人物が誰であるかは視認できた。
 野口毬音は僕の存在に気づくと、立ち上がって、ぜえぜえ言っている僕の傍らにやってきた。
「大丈夫?」
「いや…ちょっと遅れそうになったから、走ってきたんだ…それだけだ」
 紺田の事は、敢えて言わなかった。言っても説明しきる自信がなかった。
「興奮しているわけではなくて?」
「いや、そのネタはもういい…」
 言ってから、この話は別件だったと気づいた。
 ふふっ、と、毬音は笑い、さあ、と僕に座る位置を示してくれた。
「早い時間にしたんだから、そんなに慌てなくてもいいのよ」
「それで遅れたら、早い時間にした意味がない」
「それもそうね」
 
 そう言って毬音は、僕の顔をじっと見つめてきた。真っ正面に彼女の顔が見える。折角収まってきていた心臓が、又早打ちしそうになる。
「じゃあ、落ち着いたら言ってね。すぐ出発しましょう」
 微笑む毬音。その顔を見ていたら、いつまでも落ち着くことはできそうになかった。僕はそっと目を逸らし、違うことを考えて気分を落ち着かせようとした。
 
 
 
 
 僕の気分が落ち着いてから、二人は立ち上がって歩き出した。日は落ち、月と星と、わずかに近くの街路灯の光が森の中を照らしていた。
 互いの素性が割れた後。僕は毬音に、夜でなく明るい昼間にもあって欲しいと頼んだ。これは、僕にとってなかなか勇気のいることだった。これに対し毬音は、少し困った表情をした。考える仕草をした。この反応に、僕は心の中でひどく狼狽した。勇気を持ってとった行動は、やはり裏目に出るものだったのだろうかと。
 そして毬音が口を開いた。
「今日────か明日、夜に。もう一度だけ夜に会いましょう」
 そして付け加えた。
「智羽も連れてくるから」
「何で古瀬を!?」
 僕は思わず叫んでいた。それを毬音はやんわりと制し、言った。
「大事なお話────ううん、お話とは少し違うけれども。知っておいて欲しいことがあるの」
「…」
「智羽、忙しいから。日にち決まったら知らせるわね。私か、もしかしたら智羽からかもしれない」
 そう言って、毬音は去ってしまった。
 そして翌日、毬音からメールが届いたとき。僕はせめて、早めに二人で会ってくれと頼んだのだった。
 
 
 
「智羽、バイトが終わってから来るから。まだ当分来ないわよ?」
 歩きながら毬音は、そう話しかけてきた。
「わかってる。それよりも、待ち合わせの場所、古瀬はわかってるのか?」
「うん、教えたから。それにあの子、いろいろ持ってるし」
 それはきっと、古瀬自作のGPS端末のことなんだろうなと思いながら、僕は大きく頷いていた。
「で。ここです」
 毬音が立ち止まる。そこには木の生えていない、いつも毬音と会っているあのドームより少しくらいの開けた場所だった。天井はない。空が大きく見える。そして、時折風が羽をこする音が聞こえた。涼しい、少し湿気を含んだ風だ。そう感じた。
「ここで、三人集まって────!」
 途中まで言いかけた毬音が、不意に言葉を切り、驚愕の表情で一点を見つめている。僕も、同じ方向に視線を合わせた。そこには一人の少女が立っていた。
「────誰ですか?」
 視線を感じたのか、少女が振り向いた。少女と言っても、自分たちとそんなに歳は変わりないだろうか。もしかしたら緑大の学生かもしれない。否むしろそう考える方が自然か。
「誰ですか?」
 少女が、より強い語気で再度問いかけてきた。僕は毬音の顔を見た。目が合った。
 
「訊いているんです。答えて────頂けませんか?」
 そう言いながら、少女はこちらににじり寄ってきた。強い意志を持った目。そう感じた。
「僕は、僕は井塚響助。ここの、緑大の2年だ。こちらは野口毬音」
「ここで何をしていたのです? いえ失礼、何をしようとしていたのですか?」
「何って…」
 僕は再び毬音の顔を見た。何をするつもりなのか、僕は知らない。知っているのは毬音だけだった。
 毬音は何かを迷っているようだった。沈黙。少女は既に、二人の目の前にまでやってきていた。毬音が口を開く。
「あなたは────あなたはそれを知って、どうするつもり?」
 その問いに、少女は即答する。
「聞いてから決めます。ただ、おそらくはまず長官に報告することになるかと思いますが」
 そう言って少女は、携帯電話風の機械を取り出した。市販の携帯電話とは少し形状が違っていた。
「v6携帯? ────え?」
 薄明かりの中で、小さな機械に刻印された文字が見えた。UGC。University Gardian Circle────
学園警備隊。
 
 体中に戦慄が走った。緊張と危機意識が、体と思考を束縛する。何もしてない。僕は君たちに詰問されるようなことは、何もしていないんだ。空回りする思考の中には、その主張ばかりが巡っていた。一瞬、毬音がこちらを向く様子が見えた。そして、何かを決心したような表情で、目を閉じ、両手をそっと組んだ。
 風が、吹いた。意志がそれに流されてくるような印象があった。怯えと、焦りと。少女の方をみた。それが、目の前の少女のものであるような気がした。意志が変わる。あなたの。ここにいるの。と言うよりこれは、あなたなの? 誰? 誰? 違う、あなたは誰? そして思考は、大いに乱れた。
 少女の手がポケットに伸び、小さな笛を取り出す。口にあてがい、吹き鳴らす。一瞬のことだった。
「待てっ!」
 その言葉は、甲高い笛の音にかき消されてしまった。
 ピピーッ! ピピーッ! 鳴り響く笛の音。そして、大勢の人間が集まってくるのが、感じ取られた。
 
 
 
 
5.
 
 笛の音は一瞬だった。鳴りやんだ後の沈黙が、むしろ長く感じられた。そして言葉は、ずっと無い。目の前の少女は手に笛を持ったまま、荒く息をしていた。傍らの毬音は、手を組んだまま、しかし目は開いている。視線は、少女の方に。そして毬音の膝が崩れた。
「毬音…!?」
 毬音の左手が地に着き、体の全てが崩れ落ちるのは避けられた。しかし、その支えも心許ない。僕は反射的に跪き、毬音の左肩を両手で支えた。
「大丈夫…?」
「ええ、なんとか」
 振り返り、笑って答える毬音。だが薄明かりの中に見えるその顔は、ひきつり、蒼白に見えた。あの笛がそうさせたのだろうか。いやそんなはずはない、たかが笛ごときで。そう思いつつも僕は、笛を吹いた少女を睨みつけてしまっていた。ずっとこちらを見ていた少女はすぐにそれに気づき、きっとこちらをにらみ返してくる。
 再び沈黙。聞こえるのはただ、足音風の音。風の音は変わらない。そして足音は次第にはっきりしてくる。光が3人を照らした。
「馬場!」
 光の照らし出される方向から、そう呼ぶ声が聞こえた。懐中電灯を持った女がそこにいた。その後ろに、男女取り混ぜて5人ほど。ああ、学園警備隊だ。直感ですぐにわかった。
 懐中電灯を持った女は、馬場と呼ばれた少女から目を離し、僕たち二人を凝視する。そして、つかつかと歩み寄ってきた。
 
「その方は、体調を崩しているのですか?」
「あ、ああ。そうみたいだ」
「ここは意外と冷えます。移動した方がよいでしょう。────立てますか?」
 ええと毬音が返事をし、立ち上がろうとする。だがその足取りは、おぼつかずとても危なっかしい感じがした。僕は反射的に手を伸ばし、一瞬ためらい、そして背中を支えた。
「そうですね。あなた、ついていてあげてください。少し歩きますから」
 僕は動かなかった。毬音の両肩を支えたまま、怪訝な顔で女の顔を見返していた。それを見て女は、少し困ったような表情になった。
「警戒なさる気持ちもわかりますが。今はそちらの方の体調が最優先かと存じますが?」
 僕が答えないのを見て、女はさらに続けた。
「あなた達を詰問しようとか、そういうつもりではないんです。救護活動も私たちの仕事ですから」
 そう言って女は促すような視線をよこし、そして馬場と呼ばれた少女の元に歩いていった。
「馬場さん、あなたも一緒に戻りましょう。いいわね?」
「はい…」
 そして女は歩き出した。少女は何か言いたげではあったが、しかしそれ以上口を開く事はなく、黙って女の後に付いていった。女は振り返り、僕たちがついてきているのを確認してから、問いかけてきた。
「そうそう、まだ名前を聞いていなかったわね。私は中橋恵子。学園警備隊の長官を務めさせてもらっているわ」
 
 長官。そうかこの人が、学園警備隊の総元締めか。そう思うと、意識せずとも身震いが走り、引き締まる感じがした。やはり自分も敬意を込めて長官とお呼びした方が良いだろうか。
「僕は、井塚響助。こちらは、野口毬音です」
「井塚響助…総合自然2年の、井塚響助君であってるのかしら?」
「はい、そうですけど」
 思わず警戒した声になる。何故すぐにそんな事がわかるのだろう。僕はそんなに有名人だっただろうか。
「そう、あなたが。あなたの事は紺田君からよく聞いてるわ」
「紺田から…?」
「ええ。あなたと同じ学科でしょう?」
「不本意ながら」
 そう答えつつ僕は、会話の中に引っかかるものを感じずにはいられなかった。
「紺田って…もしかして、学園警備隊なんですか?」
「そうよ。あら。知らなかったのかしら?」
「初耳です」
「そうなの。しょうがないわね、大親友なのにそんな事も話さないなんて」
「大親友じゃないです!」
 
 思わず出した大きな声に、同行していた学園警備隊の全員がこちらを向き、そしてもたれかかって歩いていた毬音がくすりと笑った。中橋長官が立ち止まり、結果、僕の隣、毬音と反対の側に位置する事になる。
「紺田君、いい子よ? それは確かに、変わり者…と言うより、異端児だけど」
 紺田は学園警備隊の中でまで異端児を通しているのか。そう思うと僕は、苦笑を隠せなかった。
「宮前君、今日は紺田君は非番だったかしら?」
「非番だから非常識な事をするんだとかほざいてました」
「困った子ね…」
 再び、僕たち二人と並んで歩き始めていた中橋長官は、UGCと銘打たれたv6携帯を取り出し、話し始めた。
「もしもし、紺田君? 中橋ですけど。ええお疲れ様。…いいえ、寂しくなった時はあなた以外の誰かに電話するわ。…電話代の問題じゃないの。用件はそんな事じゃないのよ。…ちょっと黙っててね。あのね、さっき真泉(まいずみ)の森であなたの大親友を保護したんだけど…そう、井塚響助君。それと、彼女さんかしら、野口毬音さんという人も一緒で、彼女体調悪いみたいだから、これから本部に連れて行って介抱するつもりなんだけど…そう、来るのね。…別に36秒でも37秒でもいいわよ。…うん、じゃあ本部で」
 そう言って中橋長官は通話を切った。僕はずっと、横で黙って聞いていた。途中の、野口毬音は彼女さんという下りに陶酔し、しばらくそれに浸ったままでいた。そしてはたと気づいた。これから向かう場所には奴が来る。奴が来る。
「すみません、僕たちやっぱり…」
 
 そこまで言って、傍らの毬音の顔を見た。何となく、彼女を他の男と会わせたくはなかった。毬音は何かしらとでも言いたげにこちらを見返してきた。ただしそれは寄り添ったままの下の方から、いつものような同じ高さの目線ではなく。そう、さっきあんな事があったばかりだ。そんなに深刻と言うほどではないだろうが、しかしやっぱり休ませた方がいいのだろう。
「なにかしら?」
「いえ、なんでもないです。すみません」
「そう」
 そしてそのまま、僕たちはサークル棟の方向に向かっていった。
 
 
 
 
 コンクリート造りの建物に、プレハブ棟が2棟。学園警備隊の本部は、そのうちの奥のプレハブ棟の1階にあった。中には、二人の学生がいた。
「おつかれさまです」
「留守番ご苦労様」
 そのやりとりを聞いて、ああ待機してた人か、と思った。
「具合が悪い人がいるの。仮眠室、開けておいてくれるかしら」
「…いえ、椅子で十分ですから」
 今まで何も言わなかった毬音がようやく発言した。それだけ調子が戻ってきたという事だろうかと、僕は安堵した。毬音は最も手近にあった椅子を引き、そこに腰掛けた。
「あなたも座って」
 そう言って中橋長官が、毬音の向こう側にある椅子を引いて勧めてきた。
「いえ僕は大丈夫ですから」
「立たれたままでは話しづらいわ。上官と部下じゃないんだし、かと言ってそんなに気さくな友達というわけでも、まだ無いもの。座って」
 そう言って中橋長官は、椅子を引いたままにしてテーブルの向こう側に回り、引いた椅子の向こう側で腰掛けた。
「馬場さんもそこに座って。あなた達は、いつも通りにしておいてくれればいいわ」
 そう言われて、馬場と呼ばれた少女は引かれた椅子のさらに向こう側に座り、他の人たちは部屋の中で動き回ったり畳になった部分で休息をとったりし始めた。僕は、毬音と馬場に挟まれた格好で座る事になった。
 
「さて。馬場さん、あなた巡視中にはぐれるの3度目よね?」
「はい…」
 気丈な顔に、動揺の色が浮かんだ。
「どうしてなのかしら…?」
「…」
「…」
 沈黙。意志の流れが停滞する。ふと何とはなく振り返ると、毬音の何かを迷っているような表情が見えた。右へ、左へ。視線が泳ぐ。
「理由もなくこんなによくはぐれるようなら、巡視班からはずさないといけなくなるけど。事故があるといけないし…」
 その言葉に、馬場ははっとしたように顔を上げた。口元が微妙に動く。言うべきかどうか迷っているようだ、僕はそう思った。毬音の目が、いつの間にか閉じていた。
 僕は、何気なく窓を見た。風が吹き込んだような気がした。それは少しだけ開いていた。「え」という声に視線を戻すと、中橋長官が低く右手を振っていた。
「ううん、ごめんなさい。なんでもないの」
 そして何かを考え込んでいるような仕草が見えた。
「もしかして────誰かに会うつもりだったのかしら?」
 今度は馬場の、「え」という声。そして数秒の後、馬場が答える。
 
「そ、そうです。人と会うつもりでした。男の子です」
 元々根が真っ正直なのかもしれない、別に言わなくていい事まで答えていた。
「知れると詰問されるかもしれないと思って…すみませんでした」
「別に、そういうプライベートな事で詰問する気はないんだけどね…」
 中橋長官は苦笑しながらそう言い、そしてうーんとうなりながら考え込んでしまった。
「でも勝手に班抜け出してるわけだから、それはプライベートじゃなくなるのかなあ…?」
 僕は何も返答できず、ただ愛想笑いをするしかできなかった。毬音は、馬場の顔を見て、何かを真剣に考えているようだった。それが何かは、今の僕にはわからなかった。
「お茶どうぞ」
 そう声がして、湯飲みが目の前に置かれる。見上げると、先程宮前と呼ばれた男が微笑んでいた。
「あ、これはどうも」
 そう返答して、湯飲みをとった。飲むと、なんだか微妙な味がした。
「木いちご茶です」
 宮前氏は、微笑みを崩さぬままそう言った。僕は結局愛想笑いをするしかなかった。
 扉が、開く。
 
「やあ諸君、お待たせして申し訳なかったね。お詫びに歌を歌えというなら歌ってもよいが、どうするかね?」
 紺田は、入ってきた早々やかましい台詞を部屋中にまき散らしていた。毬音の愛想笑いは苦笑いに変わり、僕の顔からは笑いそのものが消えた。
「おお、そこにいるのは我が大親友の井塚響助。兄はお前の事が心配で、風呂にも入らずにすっ飛んできたぞ」
 誰が兄か。風呂ぐらい勝手に入れ。て言うか入れ。そう突っ込みたくなるのを僕は必死でこらえ、目を合わさないようにしていた。
「それとそこにいるのは、認知の野口毬音さんではないか。ふむ、そういう事か…」
「!」
 紺田が毬音の事を知っている。その事実に驚いて、思わず背けていた顔を上げていた。紺田は顎に右手を当てて、部屋中を見渡していた。
「…はて、古瀬智羽の姿が見あたらないが?」
「「あ」」
 二人の声が重なった。僕と、毬音と。
「古瀬さんが、どうかしたの?」
 中橋長官が引きつった笑い顔で訊いてきた。
「彼女は、今夜はここにいる二人と行動を共にしている、そういう予定だと聞き及んでいたのだが」
 
「そうなの?」
「ええ、そうです。今日、会う約束をしてたんです」
「私が呼び出してたんです」
「そう…」
 中橋長官の表情は、引きつった笑顔のままだった。
「私はてっきり、古瀬智羽対策のために呼ばれたのかと思っていたのだが」
「そういうことではないのよ、ごめんなさい」
「ふむ…では私が今ここにいる、その存在理由は一体なんだ…」
 紺田は腕組みをして考え込みだした。
「君は親友の事が心配で駆けつけてきたのではなかったのかな?」
「おおう、全く以てその通りでござまする。ただ一つ訂正させてもらえば、響助君は親友ではなく大親友ですがね」
 そう言って紺田は宮前氏ににやりと笑いかけ、僕は余計な事を言ってくれるなと宮前氏を睨みつけていた。宮前氏はずっと笑顔が崩れないままだった。
「で」
 紺田が話を振ってきた。
 
「すると何かね君たちは。仮にもうら若き女性である古瀬智羽に対して、今夜会う約束をして夜の森に誘い出した呼び出したにも関わらず、そこに行かずに放置していると。そういうわけだな」
「いや、そういうつもりじゃ。大体、そもそもはあんたらの所為でこうなったんだろ」
 そう言って僕は、その原因たる馬場を睨みつけた。馬場も睨み返してきた。あくまで気が強いままのようだった。
「馬場がこの二人とトラブルを起こして、その間にそちらの野口さんが気分を悪くされたので、ここに連れてきたのよ。人と会う約束があったなんて知らなかったの」
 そう中橋長官が取りなしてくれた。
「成る程そういう事か」
 紺田は並んで座っている3人を見渡し、馬場を見て、珍しくため息をついた。
「仕方ないな…。そういうことなら、この紺田洋介が特別に君たちのために古瀬に対する弁護をしてやろう」
 そう言って紺田は、ポケットからv6携帯を取り出した。見慣れた紺田オリジナルの逸品、括弧自称、だった。指で数操作して、紺田はそれを耳に押し当てる。
「ああ、紺田だがね。おそらく君が探しているであろう二人について報告しようと思ったのだよ。いやなに心配する事はない、私の目の届くところでしっかり保護されているからな。…いや、特に心配するような事はないぞ。それどころか、この二人は君の事などすっかり忘れてラブラブモード全開だ。…ああ、今はとある場所で二人並んで座っているのだが。それでもって二人して声ぴったり息ぴったりのところを見せつけてくれたりしているぞ」
「ちょっと待て」
 
 言ってる内容自体は確かに事実だ。だが、そんな言い方では無用な誤解を植え付けているようなものではないか。
「うん、うん。いや、君の怒りはもっともだ、しっかり二人に伝えておくよ。…いや、ここはきちんと怒るべきだと思うぞ。…いや、場所は教えられないな、組織防衛上の機密という奴だ。…はっはっは、それはどこのことかな…君の思考力については実のところ私は密かに尊敬していたりするが、今はそれに肯定も否定も出来ないよ…そんなに自分を卑下する事もあるまい…はっはっは、そんなに褒めるなよ、照れるぜ」
「…」
 論点がどんどんずれている、端から聞いていてもそんな気がした。少なくとももはや弁護などではない。それは僕にとってはある程度予想していた事ではあり、ただ呆れ故のため息をつくばかりであった。毬音はと言うと、呆然とした様子で紺田の方を見ていた。
「ごめん、ああいう奴だから」
 僕に出来るフォローはそれくらいだった。毬音は曖昧な笑いを返してきた。
「…うん、そうか。では野口さんに代わろうか」
 紺田はそう通話口に言い、そして電話機を毬音に渡してきた。毬音はありがとうございますと言ってそれを受け取った。
「ごめんね智羽、ちょっと、────気分が悪くなって…うん、大丈夫、休んだからもう平気。…そうね、無関係ではないのだけど…ううん、響助君じゃないの。それとは別。…ここ? 学園警備隊の本部。…え、来るの?」
 紺田と宮前氏を除く、その場にいる学園警備隊メンバー全員の顔が引きつった。僕はそれを、何事かと見回していた。
 
「古瀬智羽はここにいる人間にとって、天敵にも等しいのだよ」
 紺田が何故か薄笑いを浮かべながら、そう解説してくれた。なぜ天敵なのかまでは、言わなかった。
「うん、なんだか智羽が来ると面倒な事になりそうだから…うん、ごめんね。…うん…それなんだけど…うん、私は明日でもいいから…うん、別に昼でもいいの。ただ他の人が来ないようにしたかっただけだから…え、そうね。智羽がそういうなら…」
 僕は黙って、毬音の会話を聞いていた。周りの人がみんなそうだった。視線は一点に集まっていて、それは気づいてみるとなかなか異様な光景だった。
「智羽と、話す事ある?」
 そういって、毬音が電話機を差し出してきた。
「いや、特にない。…明日、会う約束になったんだろ?」
「そう。────もしもし、明日話すからいいって。…うん、横で聞いてたからわかったみたい。…じゃあ、明日ね」
 そして毬音は通話を切り、電話機を紺田に返した。
「10分23秒か…」
 そう言った後、紺田は電話機をポケットにしまった。
「あの…智羽はここには来ませんので…」
 周り中の視線に気づいたのか、毬音は苦笑しながらそう言った。その言葉に、一同はほっとした表情を見せ、紺田は目を閉じてふっと笑った。
 
「響助君、一つお願いがあるの」
 毬音が、僕の方を向いてそう言ってきた。
「明日の事だろ? 大丈夫、時間あるから」
「うん、ありがとう。それとね。明日…ここにいる誰かに付き添ってもらおうと思うの」
「え?」
「智羽は、そこにいる紺田君がいいだろうって言うんだけど」
「ほほう」
「な、なぜに!?」
 思わず声が上擦ってしまった。そして紺田は嬉しそうだった。
「本当はあまり他の人を入れたくはないの。でも、今日みたいな事があるといけないから…それならいっそ、学園警備隊の、信用できる人に付き添ってもらった方がいいと思って」
「紺田は信用できん」
 僕はきっぱりと言い放った。
「何故だい? 僕のどこが信用できないと? それとも僕は、過去知らない間に君を裏切るような真似をしたのかな?」
 そう言いながら、紺田は僕の顔を覗き込むように接近してきた。
 
「そういう事は無いけど…その、お前は言動が普通じゃないから」
「言動が普通でないものは人としても信用できない。君はそう言いたいのかね?」
「そういうわけじゃ…」
 僕は返答に困って、救いを求めるように毬音の方を見た。毬音の顔は引き締まっていて、今の僕を助けてくれるという印象はなかった。
「他人に対する評価の立証に別の他人を当てにするのは、あまり感心しない事よ」
 そう、中橋長官から言葉が飛んできた。僕はただ、落ち込むしかなかった。これが学園警備隊のきつさという奴か、そう思った。
「それでは明日、よろしくお願いします」
 僕が落ち込んでいる間に、毬音は紺田に向かって頭を下げていた。
「うむ。しかし、私一人で良いのかね?」
「え?」
「私としては、そこにいる馬場諭紀子も連れて行く事を提案したいが…どうかね?」
 毬音は、馬場の方を見た。暫しの沈黙の後、毬音は頷いて肯定の意志を示した。馬場の方は何故という困惑の表情を浮かべており、僕としては今はむしろそちらの方に同感だった。
「まあ、そんな顔をするなって。これも任務だと思え」
「…はい」
 あまり納得しきったようではなかったが、それでも馬場は承諾した。
 
「僕にとっては任務ではないと思うのだが」
「そうだな。任務と言うよりは、義務だ。君はもっといろいろな事を知る必要がある」
 椅子を引いて腰掛けながら、紺田はそう言った。彼の言わんとする意味が、僕にはいまいちわからなかった。君はわかるのか、そんな意志を持って、毬音の方を見た。
「明日。明日になればわかるから」
 毬音はそう答えた。
「ほう、そこにあるのは木いちご茶ですな」
 紺田が、毬音の手元にある湯飲みを覗き込みながら言った。
「宮前先輩、俺もお茶欲しいです」
「君のは無いよ」
 宮前氏はずっと笑顔のままだった。
 
 
 
 
6.
 
 がちゃん。そんな音が窓の外から聞こえて、目が覚めた。寝ぼけ眼で時計を見ると11時前であり、外は明るいから今は午前11時くらい何だなと認識した。そして、音の原因を確かめるべく、起きあがってカーテンを開けた。
 窓の外の手すりには巨大な挟み器が引っかかっており、その先からロープが垂れ下がっていた。そして、そのロープをよじ登って、まもなくこの窓にまでたどり着こうという古瀬智羽の姿が確認できた。
「またかよ…」
 僕は内側の手すりに両手を掛けたまま、その場に崩れこんだ。窓が叩かれる音がして、見上げるとそこに、古瀬の顔が見えた。
「窓開けてー」
 そう言っているのが聞こえる。僕は立ち上がって鍵をはずし、ガラス窓をスライドさせた。古瀬がレールに左足をかけ、「よっ」と言いながら部屋の中に飛び降りた。僕はそれを確認して窓を閉めた。
「窓から入ってくるなっていっただろ! 何でここから来るんだ!」
「だめなら開けなければいいでしょん」
「そういう事を言ってるんじゃない。それに、開けなかったら、またこの間みたいに騒ぐんだろう」
 古瀬がこの部屋に来るのは、もう何回目か知らない。そしてその大半は、窓から入ってきている。ここは2階にも関わらず、だ。むしろ表口から入ってきたのが2,3回しかなく、それは古瀬以外にも人がいたためだったからだ。
 
 一度、鍵を閉めたまま開けずに放ったらかしにしていた事がある。夜中だったが、一度懲らしめた方がいいと思い、そうしたのだった。しかし古瀬は、そこで大声でアニソンを歌い出し、人が群がってくる騒ぎになってしまった。8曲歌ったところで僕は観念し、窓を開けざるをえなくなったのだ。
「さあ。どうかしらねえ」
 古瀬は天井を見上げながら、すっとぼけて見せた。
「一度、上ってる途中でロープ切ってやろうか…」
「若い者は、どうしてそう刑務所に入るような行為をしたがるかねえ」
 僕と同い年のはずの古瀬は、そう言いながら冷蔵庫の方に向かっていった。
「あっ、待て…」
「おお、黒大豆ヨーグルトがあるではないですか」
 僕が制止しようとする前に、古瀬は既に冷蔵庫を開けていた。
「響助君。これ、食べてもいいかな?」
「だめだ。それは、食後に食べるつもりで買ったんだ」
「食後かあ…」
 古瀬は再び冷蔵庫を覗き始めた。
「そういえば朝食もまだなのよねー。何がいいかなー」
「どれもだめだっ!」
 
 僕は思わず強く叫んでいた。古瀬がおずおずとこちらを見上げていた。
「あ、…いや、ごめん」
「響助君…」
 古瀬は、冷蔵庫の中に突っ込んでいた右手を差し出してきた。
「このチーズ、パンに乗せて食べたい」
「…」
 古瀬の哀願するような上目遣い。僕は何も言い返せない。
「いいよね。ね? やったあ」
 古瀬は嬉々として冷蔵庫の扉を閉じ、食パンをあさりだした。僕は何も言わず、崩れ落ちるようにベッドに座り込んだ。こういう事は、これで何度目になるだろうかと考えながら。
「響助君も食べる? 食べるなら一緒に作るよ」
「いや、…いい。なんだか食欲が失せた」
「食べといた方がいいよ。もう昼前なんだし。毬音の話、長くなるかもしれないし」
「ああ、ああ」
 そう言われて、僕は今日が昨日の翌日である事を思い出していた。正常思考を取り戻すのに暫し時間がかかる。
「昨日、ごめんな」
「ん? ああ、そうね。でもしょうがないでしょ、あれは」
 
「しょうがない…のかな」
「まあ、そういう事にしときなさいって。誰もけが人は出てないんだし」
「毬音は体調を崩したけど」
「あれは…」
 古瀬は、少し考えて続けた。
「…まあ、少なくとも響助君の所為じゃないし」
 オーブンレンジからピーという電子音が鳴り、古瀬がその扉を開けた。
「…そうか、響助君はある意味、今まで蚊帳の外だったんだ」
 オーブンレンジを覗き込んだままの格好で、古瀬はそう呟いた。それが単なる独り言なのかどうか、それはわからなかった。
「ま、今日で全てがわかるはずよね」
 そう言って古瀬は、二枚のパンを取り出し、一枚を僕に差し出してきた。焼けたチーズの上にブルーベリージャムが乗っていた。
「おい、これ…」
「こういうのもなかなかいけるのよ」
 古瀬は既に、パンをほおばりだしていた。
 
「いや、そういうことじゃなく…いやそれもあるんだけど、なんというか、また勝手に食材を…」
「あたし、こう見えても共産主義者だから」
「わけのわからん言い訳をするなっ!」
「まあ、親思いは水心、って奴よ」
「だから全然意味がわからん…」
 僕はため息をついて、そして一口パンをかじった。そして、ふと思い当たり、訊いてみた。
「古瀬…お前、もしかして、学園警備隊の本部でも、こういう事やってるのか?」
 古瀬は窓の外を見ていた。
「今日、天気いいわね」
「ごまかすなよ。と言うか、ごまかすという事はやってるんだな」
「あたし、そんな見ず知らずの人たちにものをたかるほど、図々しくないよ?」
「学園警備隊の連中は、古瀬にとって何だ?」
「はっきり言って同志ね」
「…そうか」
 僕は、それ以上を訊く気になれなかった。
 
 
 
 
 昼すぎに、智羽と共に寮を出た。二人で歩いているところを毬音に見られたらまずいかなとも思ったが、しかしやましい事があるわけでもないし、毬音は話せばわかってくれるはずだと思った。そもそも、これからその毬音と会いに行くのだ。
「あの森は…」
 古瀬が話しかけてきた。
「あの森は、毬音と二人でよく行ってるんでしょ」
「あ、ああ。主に夜だけどな」
「なぜ夜に?」
「いや、特にこれといった理由は。最初に会ったのが夜で、それからずっと」
「なんか、あやしい関係ね」
「あやしくない」
「あやしくない。じゃあ、どんな関係?」
「それは…」
 何故か、そのときは答えが出てこなかった。
「ったく、それくらい即答しなさいよ…」
 
 古瀬は呆れたようにそう言い、そして、宙を見つめるようにつぶやいた。
「初めは夜、そしてこれからは昼…あたしはどちらにいればいいのかな…」
 その言葉の意味は、僕にはわからなかった。何も答えなかった。僕に向けられたものではない、そう思う事にした。
 
 
 毬音はドームの中心にいた。そこには、他に人はいなかった。
「紺田君と馬場さんは、外にいるわ。そこ」
 そう毬音が指さす先には、確かに誰かがいるようであった。わざとらしくちらちらと見える肩は紺田のものに見えたが、気にしない事にした。
「先に、3人の用事を済ませましょうか。こっちに来て」
 言われて、僕と古瀬は毬音の前に立った。毬音は僕の左手を取り、それを両手で握りこんだ。唐突なその行為に僕は戸惑い、そして自分で頬が赤くなるのがわかった。
「違うの。そういうのじゃないから」
 そういうのじゃないから。そういうのじゃないから。その言葉に僕は、自分の感情にひどく恥を感じた。そして、否定した。そういう事じゃない。そういう事じゃない。
 その間に毬音は古瀬の手をも取り、そして3人の手が合わさった。
「こんな事、わざわざする必要があるの?」
 右手を毬音に預けたまま、古瀬が訊いた。
「ううん、無い。でも、響助君にこの事で動揺して欲しくはないから、それで」
「大事なんだ」
「…そうね」
 そして毬音は、何かを確かめるように頷き、古瀬がそれにゆっくりと頷いて応えた。それは何かを始めるという意味だと受け取り、僕も頷き返した。毬音は目を閉じた。僕も閉じた。
 
 風が、吹いた。そして、流れ込んでくる何か。音でもない。映像でもない。強いて僕の知っている言葉で表すならば、それは情報だった。何者かの、意志を表現するための情報。その意志の目的は好意。目標は自分。そしてそれが出ているところは────古瀬。
 僕は目を開いた。堅く目を閉ざした古瀬がそこにいた。なんだろう、今のは何だろう。思考に動揺が起き始めた時、左手がより堅く握られた。その毬音の手の感触に我を取り戻し、落ち着いた思考の波が戻ってきた。そして改めて考える、なんだろう、今のは何だろう。
「そう、今のはあたしの心」
 目を開き、意を決したように古瀬がそう言ってきた。その言葉の意味を、僕は考えていた。古瀬の心。そうか、今のは古瀬の心なんだ。でもそれは、どういう事だろう。何故そんなものが伝わってくるのだろう。この手、合わさった手に原因があるんだろうか。そう思い、握りこまれた自分の左手に目を落とした。そして、握っていた毬音の手は離れた。
「これが、あなたに知っておいて欲しかった事の一つ」
 毬音は、僕の目をまっすぐに見ながら言ってきた。
「あなたが私に抱く好意はわかっているし、それは私にとってもとても嬉しい事。でも、あなたに向けられるもう一つの好意があることも、わかって欲しかった。知っているのと知らないのとでは、ずいぶん違うから」
 僕は古瀬の方を見た。目が合った瞬間、古瀬はそっと目を逸らした。僕も、視線を落とさざるをえなかった。事実が確かにそこにあった。そして僕は、判断が出来ないでいた。僕はどうすればいいんだろう。
「答えは、今出さなくていいわ。もう一つ、知っておいて欲しい事があるから」
 そう言って毬音は、先程紺田が隠れたふりをしていた場所の方を向いた。
「すみません、こちらまで来て頂けますか」
 
 言われて、陰に隠れていた馬場が姿を見せた。紺田は出てこようとしなかった。
「紺田先輩、呼ばれてますよ?」
 そう馬場に言われても、なお紺田は出てこようとしなかった。隣から、古瀬のため息をつく音が聞こえた。そして、古瀬が紺田のいる方に向かって叫んだ。
「紺田君、大親友の響助君が来て欲しいって言ってるよ!」
「はっはっは、しょうがないなあ」
 紺田はあっさりと出てきた。僕はなんだか不愉快だった。
「それでは、始めましょうか」
 毬音は何事もなかったかのように、全員を見渡してそう言った。そして、右に3歩進み、星が見える位置、小枝が覆うドームのほぼ中心に立った。他の4人はそれを囲むように移動する。そして、中心に立ちすくむ毬音が、そっと目を閉じる。
 風。そして体の中をすっと吹き抜けるような感覚が走る。風は強くなる。視野に映るもの。ドームの中を、周状に薙がれる草葉、枝葉。毬音を中心に、風が回転しているようにも見える。否それは、むしろ彼らが自ら動いているかのようにも見えた。
 そして。
「え…?」
 
 旋律。
 
 聴覚を通してでは、無い。大脳の感覚野に直接響き渡ってくるような、そんな旋律が聞こえる。決して不快ではない。むしろ、心を研ぎ澄ますような、そんな心地よさを伴う。それは、意志ではない。ただ、多くの命から伝わってくる何か、そういう感覚はあった。
 ふと、ほんの一瞬、他の3人の事が気になった。彼らは一体今どんな感覚なのだろう。そして少しの間を置いて、意志が流れ込んでくる。それは3つの意志である事がわかり、しかしそれ自体は一つであった。そしてそれには、覚えのある感覚、古瀬智羽の意志が含まれていると感じ、残る二つは紺田と馬場のものだろうと、判断した。そして意志でない感覚は草木の歌声。それが3人と、それを感じる1人の結論だった。
 風と歌声が身を包んでいた。広く、もっと広く。聴く意志を深めるほど、それはより大きな声、より大きな生命の集団を感じさせるものへとなっていった。時は感じない。あらゆる壁となるものは、今この瞬間に於いては、無意味であった。
 
 
 
 気がつくと、風も旋律も止まっていた。毬音の閉じられていた眼が、そっと開く。そしてその口も開かれた。
 
 私は、生まれもって心を感じる事が出来ます。獣、鳥、水に棲む魚。木々や草花。私の周りにいる、全てのいくとし生けるものが対象です。伝えたい意志、強い生命の息吹。そういったものがある時に、私はそれを感じる事が出来るのです。それにはもちろん、人も含まれます。
 私は、生まれもって心を伝える事が出来ます。人から鳥へ。木々から魚へ。それらの、対話のないもの達の間で、心と心を結ぶ事が出来ます。意志は言葉が無くとも伝わり、生命の息吹は他の命と共鳴してより強さを増します。もちろん、人と人との間の、言葉無き意志のやりとりも可能です。
 私に何故このような力があるかはわかりません。私にこのような力がある事の意味もわかりません。私の力は時として人を惑わし、そして私自身も決して強い人間ではありません。だからこの力は滅多に使いません。それでも、信頼したいと願う人には、知って欲しいとも思うのです。私は、心を紡ぐ者であると。
 
 
 いつしか風はやんでいた。言葉だけを選び取っていた僕の意識が、再び視界を認識し始める。毬音と、3人と、木々達と。
「響助君。あなたには、全てを知って欲しかった。全てを知った上で、判断して欲しかった。私にあなたの心は見えても、それを作り上げる人格全てが見えるわけではないから、だから…」
 僕は何も言わず、まっすぐに毬音を見つめながら歩み寄った。手を取る直前に古瀬の方を向き、ゆっくりと目を閉じてまた開き、言った。
「ごめん」
「いいの。とっくにわかっていた事だから」
 そう言って古瀬は、横を向いてしまった。
 そして僕は毬音の両手を取り、まっすぐにその瞳を見て、言った。
「君が伝えたいこと、僕は知ったつもりだ。だから見て欲しい。僕の心は、前と何か変わった?」
 毬音は大きく頷いた。そして言った。
「強くなってる。嬉しい」
 そして毬音の頭が、僕の肩により掛かってきた。周りには木々があった。3人の姿は、いつの間にか見あたらなくなっていた。
 
 
 
 
7.
 樹々の描く円の中心。そう思ったところに、座っていた。頂点から27°ほどずれた位置から、光が差し込んでくる。枝葉に覆われていない部分。ああ、あれが、星の見える場所という事ね。そう思いながら、持参していたペットボトル飲料を口にした。甘ったるい砂糖と、ブルーベリーの味がした。大して美味しくは無い。響助の部屋を出る前に自作した飲料だから仕方が無い。
 週末午前。天気は晴れ。
 しばらく、何もしないでいた。時が経過していく、ただそれだけを思った。差し込む光は時に強く、時に薄くなり、ああ雲が流れているんだなと思った。そして光の差さない部分、樹々の枝葉に覆われた部分は、ずっと変わらないままだった。
 ふと思い立って、耳を澄ませてみた。心を落ち着かせてみた。そしてまた、時が経った。何もなかった。何も感じられなかった。ただ差し込む光が変わるだけで、風すら吹かなかった。
「ばからし…」
 そう言ってあたしは、両手を枕に、その場に寝転がった。続く何やってんだろという言葉は、心の中でのみ呟かれた。そして思考は、その理由に対する回答を求め始めていた。
 もし。ここにいたのが毬音でなく、あたしだったら。
 それは、とても無意味な仮定に思えた。ここにいたのは不思議少女の野口毬音であり、だからこそ井塚響助にとっては意味のあった事なのだ。仮にあたしがここにいたとしても、彼にとってのその認識は、ここにいる古瀬智羽ではなく、なんちゃってクラスメイトの古瀬智羽がたまたまここにいたという事にしかならない。きっと。
 結局彼と親しい事は、あたしにとってたいした益にならなかった。積み重ねた関係は、偶然に負けてしまったのだ。そう考えると無性に悔しさがこみ上げてきて、そして何が何故いけなかったのだろうという考えが走り始めた。私と彼の出会いも、やっぱり偶然ではなかったのかと。
 
 
 一年前、いや、まだ一年は経たないくらいの前の事。授業登録が行われている教室の片隅で、私は一人でぽつんと立っていた。他学部他学科への飛び込み登録。実験科目であるそこでは、それは歓迎されない事だった。大学として認められている事なのに、と食い下がる私に、教官は人数が合わない駄目なんだと答えた。その学科に所属する人間で二人組24のグループが作られ、余りはなかった。そしてキャンセルはなかった。
「君の事は知っているよ。認知所属の特別奨学生で、よその授業までも果敢に取りに行く学生がいると」
「ご存じいただいて幸いです」
「まあ、その意欲は買うが…必須でもないんだし、これ一つくらい取らなくてもいいんじゃないの?」
 それは、確かに正論だった。それでも私はただ一人、立ち続けていた。何が自分をそんなに意固地にさせていたのかわからなかった。敢えて挙げるなら、戦わずに去るのは嫌だと。そんな感情的な理由しか思いつかなかった。
 その場にいる学生は、皆一様に黙っていた。この学生達とは、多少顔見知りではあった。この学生達の属する総合自然学科、そこの科目を前期に取ったし、今期も既にいくつか登録を済ませている。一緒に昼食を取った中の人もいる。それでもみんな、何もしなかった。目を伏せたままだった。ただ一人、眼鏡の男がふんぞり返っている以外は。
 そして、今もう一人。その隣にいた男子学生が、こちらを見た。目が合った。優顔、見た覚えはある。でもまだ話した事のない人だった。名は、なんと言ったろうか。そう考えているうちに、誰かが席を立つ音がした。今目が合った男子学生だった。彼は何かを決意したような表情で、こちら側に歩いてきた。
「おっ。動くか」
 そう言って、隣の眼鏡の男も立ち上がった。こいつは知っている、確か、紺田といったろうか。だが優顔の彼はそれには反応せず、まっすぐに私と教官のいるところに向かってきた。
 
「先生。古瀬さんを入れてやってくれませんか?」
「話、聞いてただろう。機材に限りがあって、人数が合わないから」
「僕のところに入ってもらいます。三人で。それならいいでしょう」
「いや、二人って決まってるから」
「二人でやる実験を三人でやっていけない理由があるのですか?」
 彼は、なぜだか執拗に食い下がっていた。紺田は、しきりにメモを取っていた。教官はそれをちらりと見て、少し考えてから言った。
「一人は操作、一人は記録。もう一人は手が空く。そうすると、手が空いた人間がどこかへ行ってしまうんだ」
「参ったな、私の行動が読まれてしまうとは」
 そう言ったのは、紺田だった。私たち三人を含めて、全員の視線がそこに集まった。
「いや、なんでもないです。続けてください」
 教官の顔には、疑いの色が濃くなっていた。目の前の、まだ名を知らぬ彼は、困ったように黙ってしまった。そしてまた沈黙が訪れた。
「なら」
 紺田が一歩こちらによって来て、その左手を黙ったままの相方の肩に置いた。
「井塚響助は今期、登録しません。但し、必修科目ですし、万が一にも来期落とすといけないので、見学だけすることにします。それでどうでしょう?」
 
 井塚響助と呼ばれた彼は、え、というような顔をして紺田の顔を見た。しかしすぐに、何かに気づいたように視線と表情を戻した。
「いや、しかしそれでは」
 教官は少し動揺していた。
「先生はつまり、私が途中で教室を出て行ってしまうのではないかとお疑いなのですよね? もしくは、学科の違う古瀬さんか。その二人は、操作か記録をやります。響助君は出ていくような人間じゃないし、万一出ていったとしても登録してないわけだから問題ないですよね?」
 それは論理のすり替えだった。でも私は、それを指摘する気にはとうていなれなかった。代わりに、一緒になって教官を見つめていた。響助君も、一緒になって教官を見つめていた。教官は、一度深い呼吸をした。
「登録していない学生が入ってくるのは、それもあまり良くない事だ…」
 そして、一呼吸置いて続けた。
「二人で記録をつけるようにしてください。終わった後で、間違っていないか照合して。それと、無闇に教室を出ない事。休まない事。それで良ければ、三人とも登録します」
 私は、響助君の顔を見た。彼は、紺田の方を見た。紺田は頷いた。そして、三人で声をそろえて言った。
 
「ありがとうございますっ!」
 
 
 
 
 
「どうしたんですか? こんなところで」
 声をかけられた。そして気づいた、今自分がいる場所と時間に。緑色の葉で埋められた視界の隅に、馬場諭紀子の姿が見えた。
「ん、何もしてない」
「そうですか」
 諭紀子は、私の隣に腰を下ろした。
「昨日の残念会のせいで鬱になっているとか…そういうことではないですよね?」
「そういうことにしておこうかな」
「私はかまいませんけど…主催は紺田先輩ですし」
「あなたも共犯よ」
「では昨日の件は、普段のあなたの行動に対する復讐ということにしておきます」
「ああ、そうですか。それじゃ仕方ありませんねえ」
 そういって私は、首を振って見せた。
「それで、ここにいるのは何故ですか?」
「うん、何となく。と言うより、何もしないためにここに来たの」
「あなたでも、そんな時間を持つ事があるんですね」
「うん、そうね。たまにはね」
 
 そう言ってから気づいた、それは本当にたまにだったのだと。5年前、母が亡くなったときから。3年前、父が亡くなってから。そして1年前、井塚響助と出会ってからも。
「…だから、駄目だったのかな」
「何がですか?」
「走り続けている女って、やっぱり男から好かれないものなのかな」
「どうなのでしょう。確かに捕まえにくいとは思いますが」
「捕まえにくい、か…」
 私の頭の中に、捕獲という言葉が浮かんだ。それはたぶん意味が違うと知りつつも、その言葉が頭の中から離れなかった。
「最も、にくいもなにも、捕まえる事自体を厭がる人もいますけど」
「よね」
「井塚さんは、どちらかというとそういう人な気もします」
「じゃあ、こっちからとっ捕まえないと駄目なのかな」
 私の頭の中で、対人用ネットランチャーの設計図と青写真が浮かび上がった。それは井塚響助を捕獲するためのものであり、実際そうしてみたいとも思った。しかしそれも、今諭紀子と話している内容とは違っていた。
 
 諭紀子は、次の返答を考えているようだった。勿論、私の現在の思考など知るよしもない。そしてあまり知られたくはない。この場に毬音がいなくてよかった、そう思い、そして、毬音はこれを他人に伝えるだろうか、とも思った。
 いや。もしも私が知られたくないと思っているのなら、それを流すようなことはしない。彼女はそういうことができる人だ。自らも、何も聞かなかったかのように。そして知って欲しいと思うことは伝えてくれる。
「…そうですね。捕まえて、そのまましばらく抱いて走っていくくらいでないと、いけないかもしれません」
「えっ?」
 突然諭紀子から返ってきた返答に、私は少し慌てた。
「ううん、ごめん。えっと、それって、一緒に走っていくじゃ駄目なの?」
「だって、同じ早さで走れるとは限りませんよ?」
 そう言って、諭紀子は真顔であたしの顔を見つめた。
「特にあなたの場合」
「何故」
「訊くまでもないでしょう。理論派の秀才で成績優秀での特待生なくせに、傍若無人でどこにでも突撃していき、しかも食い意地が張っている」
「…あたし、そういう風に見られてるわけね」
「どう見られてると思っていたんですか」
「それは、まあ…おしとやかに見られてるとは思ってないけど」
 
「ちなみに学園警備隊の中では、レミング古瀬と呼ばれてますよ」
「レ…!」
「冷蔵庫の中のものを食い荒らして去っていくからです」
 わざわざ解説してくれた。
「命名者は紺田先輩です」
「あのやろ…」
 そう言うと諭紀子は、くすくすと笑った。不機嫌な顔をあまり見せない子だが、しかしそんな風に笑うところもそれ以上に見なかった。打ち解けた、そう考えると不思議だった。自分は特に何もしていないのに。
 諭紀子のそれは、すぐに真顔に戻る。いつも見る顔。彼女の私に対する基本姿勢。
「ところで、さっきの話…」
「ん?」
「捕まえられなかった人って…」
 そこで、諭紀子は暫し間を置いた。私は、息継ぎをするかのようにペットボトルに口を付けた。
「紺田洋平ですか?」
「ぶっ!」
 口から喉に、流れ込む途中だった液体。胃に達するはずだったそれは、突然の呼吸の乱れで再び外に放り出されてしまった。
 
「けほっ。けほっ」
 むせかえる私を前にして、諭紀子は黙ったままだった。素のままの表情で。だけれども、その口元がわずかに緩んでいたのを、私は見逃さなかった。
「なんちゅう事言ってくれるかな。と言うより、わざとでしょ」
「ええ」
「意外と性格悪いのね」
「そんなことないです。でもあなたは、敵ですから。容赦しません」
「敵? そうか、素敵に無敵ね。フフン、あたしに相応しい言葉だわ」
「敵が無いなんてあり得ません。むしろ敵素大発生です」
「なによ、敵素って」
「敵が出来るごとに発生する元素です。燃素みたいなものです。人間の器が小さいと、すぐ敵素で埋まっていっぱいいっぱいになります」
「なんじゃそら」
「私の思いつきです」
「いや、それは言われなくてもわかるけど…」
「そうですか」
 
 そこで、諭紀子は一呼吸置いた。
「でも。これだけ敵素を出しながら、まだ余裕のあるところを見せられるというのは。人間の器が大きいという事なのでしょうか」
「そこは、褒めてると受け取っていいの?」
「そうですね。そうなります」
「そうか」
 それは、素直に嬉しかった。余裕なんて無い、という言葉は一瞬だけ頭をよぎったが、それもすぐに消えた。それがなければきっと、今まで走り続けることなどできなかっただろうから。
 そして、しばらく沈黙が続いた。何を思うともなく、空をみていた。すき間からわずかに見える空。わずかな視界の隅、諭紀子もまた、同じ方向を見ていた。きっと彼女も、特に何も考えていない。何故かそう思った。
 二人の傍らで、わずかに漏れ流れてくる光が波を打っていた。それはきっと、あの雲が流れているから。風が、雲を流している。そう感じた。
「…通じないって、やっぱり辛いですよね」
 天井を見上げたまま、諭紀子がそう話しかけてきた。
「唐突ねえ」
「そうですね。私も突然、そんな事を思いました」
「そう」
 
 諭紀子が上を見たままだったので、私もまた、上を向いた。雲よりも、枝葉がより目に入った。そしてそのまま、言葉を待っていた。
「…私も、通じないんです」
「そう」
 私の場合は違う。通じて、なお、駄目だった。そう言いそうになり、すんでの所で言葉を抑えた。
「いえ。正確には、私の思いは通じているんです。確実に。でも…」
 諭紀子は、視線を地面に落とした。
「彼の思いは、私に通じない。流れてこない」
「そう…辛いわね」
 それは、私と同じ状況なのだろうか。通じても、それを肯定してはくれなかったという。それとも、もっと違う話なのだろうか。
「昨日。この話を、野口さんにもしたんです」
「毬音に? そう」
「野口さん、私と一緒に、彼に会ってくれるそうです」
「そうか。それはいいかもね」
 話の流れがよく見えなかったが、そうすることはいいことだと思った。
 
「ただ。私よくわからないんですけど。ああいう力を持った人って、人の心を伝えるかどうかを選ぶこともできるんじゃないですか?」
「ん? んん、そうね。だから…もし彼が、本気で心の内を知られたくないと思っていたら、毬音はそれをあなたに伝えはしないでしょうね」
「ええ。それもあるんですけど…」
 光の波は、いつの間にか消えていた。
「そういう力を持った人なら。自分の心を伝えるかどうかも選べるんじゃないかと」
「…言ってることがよくわからないんだけど」
「つまり。野口さんを以てしても、彼の心の内を知ることはできないんじゃないかと」
「ん? それって…」
 その、諭紀子の言う彼は、心を通わす力を持った者。野口毬音と同族である。
「そういう事だと思います」
 
 風が、吹いた。水気を含んだ風。それは、この先にある湖から来ているのだと感じた。
「私、実は彼のことあまり知らなくて…」
 諭紀子のその言葉は、とても小さかった。
「ふう…」
 直ぐに答えが出ない。私は天井を見上げた。枝葉が風にそよぎ、雲はもう流れてはいなかった。
「…まあ、少なくともあたしは、毬音がそこまで出来るとは訊いてないから」
 保証のない言葉だと知りつつも、私はこう続けるしかできなかった。
「大丈夫。きっと、これから知ることが出来るわ」
 
 
 
 
 
8.
 トンネルのような長い長い緑色の闇を抜けるとそこには、紺田がいた。
「…」
「よお」
 気づかないふりをするにはとうてい無理な位置に、彼は立っていた。わざとらしく、アメリカ人のごとく両手を挙げて立っていた。
 僕は気づいたが敢えて無視するという行動を取ることにした。脇を通り抜けようとしたときに、紺田が呟いた。
「君が、大親友を無視するような冷たい人間だとは思いたくないな」
 僕はそれをも無視した。たとえ冷たい人間と思われても、彼と大親友呼ばわりされるのは嫌なのだと、言い訳しながら。
「まあ、いい。君がどんな人付き合いをするかは、確かに君自身が決めることだ。だが────」
「…」
「恋人が落ち込んでいるときに、冷たい態度を取るような真似だけはしないことだな」
 その言葉には、さすがに立ち止まらざるをえなかった。
「────何が言いたいんだ?」
「それは自分で考えたまえ。言葉の意味を、深く吟味しながら。最もそれは、私と長いつきあいである君なら、そんなことをするまでもなく判ることだとは思うが」
 
 最後に余計な一言が入っていると思いつつ、僕は紺田の言葉の意味を考えた。
「────毬音が、落ち込んでいるから、行ってこい、?」
「君がそう思うなら、それが答えだ。それが我が心の内。なぜなら我らは心の通じ合った仲、朋友」
「…毬音は、今どこ?」
「君と共に、我が心の中に」
「…」
「もいるが、実在という意味では、学園警備隊の本部だ」
 その場所を聞いて、僕は先日の一件を思い出していた。毬音が気分を悪くして、学園警備隊の本部に運び込まれた一件を。
「一体何があったんだ?」
「彼女の今日の行動予定を、君は聞いていたかね?」
「いや…」
「なら、それも含めて彼女から聞くといい」
「それは、深刻な話だからなのか?」
 紺田は空を見上げた。
 
「いや────実を言うと、私もよく知らないんだ」
「は?」
「何となくの察しはついているのだが、具体的に何があったのかまでは知らない」
「…」
「ただ、野口毬音が落ち込んでいるときには、井塚響助が最も効果的である。そう判断した。だから君を連れて行こうと思った」
「そうか」
 紺田洋平。普段は非常にうっとうしい男だが、たまにこういう気の利いたこともしてくれる。その普段の行動にしても、彼にしてみれば相手への気遣いゆえのものなのだ。その表現方法は激しく間違っているが。きっと彼は将来、娘を溺愛したあげく嫌われてしまう父親になるんだろうな、ふとそんなことを思った。
「わざわざありがとう。…探したよな?」
「はは、まあな」
 紺田は目を閉じ、右手を額にやって悦に入っていた。
 
「何、案ずることはない。私は、いつだって、探し続けているのだから」
 また話が変な方に入ってきた。
「…なにを」
「無くしてしまった、君の心さ」
「人の心を勝手に無くすな」
 未来の娘以前に、彼は自分の親兄弟にも嫌われてやしないだろうか。ふとそんな心配をしてしまった。
 
 
 
 
 
 緑丘総合科学大学文化系サークル連合付属構内自主警備団。明朝体でそう書かれた、古びたアルミプレートがかかっている。その脇の扉を、紺田が勢いよく開けた。椅子に座った毬音の姿を見て、僕は少しほっとした。思っていたほど、落ち込んでいる様子ではないと。
「あら。突然どこへ行ったのかと思ったら、井塚君連れてきたのね」
 ここの責任者であるところの中橋長官が、紺田に向かってそう言った。
「フィアンセとして紹介したいというわけじゃないので、ご安心を」
「安心していいのかどうか、微妙に悩むところね…」
 そんな会話を後ろに聞きながら、僕は毬音の元に歩み寄っていった。
「大丈夫? なんかあったの? 詳しいことは聞いてないんだけど」
「うん? うん、私は平気。ちょっと凹んでるだけだから」
 そう言って毬音は僕に笑いかけてきた。それはいつもよりも力なく思えたが、しかしそんなにひどい状態でもないなと安心できる程度であった。
「何があったの? 言えないことなら、いいんだけど」
「ううん、そうでもない。ちょっと、自分の思い通りに行かなかったものだから。私ってだめね…」
 それは、自分の思い通りにしようとしたわがままと、それが通らなかったことで落ち込んでいる自分、どちらへの嫌悪だろうか。それとも両方なのか。僕は毬音の心が見えないか探ってみた。しかし、それは見えなかった。
 
「馬場さんが、心の中を知りたいという人がいて。一緒に会ってみたの。でもだめ、私じゃ無理だった」
「…」
 以前に聞いたことがあった。毬音が心を伝えられるのは、結局心を開いたもの同士でしかないと。つまりその相手は、馬場諭紀子に心を開いてはいないという…
 その考えに気づいたのか、毬音が首を横に振った。
「それすらもわからないの。開いているのか閉じているのかもわからない。行き着くべきものが何か、全く見えないの」
「…」
 僕には毬音の持っている力はない。だからそれがどういう事かはよくわからない。ただ、その毬音と諭紀子があった人というのは、今まで彼女があったこともないような人物なのだという察しはついた。
「同族ならすぐ話が通じるはずだと思って…。甘かった。すごく甘かった」
「同族…」
 その単語の意味するところが、すぐにはわからなかった。
「まあ、毬音が落ち込むのもわかるけど。それ以上に諭紀子も落ち込んじゃってるのよねー」
 後ろから、声がかかった。
 
「あ、古瀬いたんだ」
「まっ。毬音にばかり目がいって、あたしには気づかなかったって言うのね。嫉妬しちゃう。と言うより失礼だわ。くやしい。きぃ」
 不必要に思えるほど、恨み辛みの言葉を並べ立ててくる古瀬。その手には、スプーンと紙カップが握られていた。健康プリン、モロヘイヤウコン納豆キナーゼ入りと書かれていた。まずそうだな、というのが正直な感想だった。
「で、もっと落ち込んでるって?」
「ほら、そこ」
 古瀬がさじで一点を指す。そこには、机に突っ伏した諭紀子の姿があった。
「…ああ、気づかなかった」
「あらま。本当に毬音しか眼中にないのね」
「いや、そういうわけじゃ…そういうつもりじゃ」
「実際その通りなのだから仕方なかろう。そういう間柄だし、誰もそれを責めたりはしない」
 なにやら書類の束を抱えて戻ってきた紺田が、そう言った。
 
「それは?」
「プーチン元大統領が、遺言の中で残したKGBの極秘資料だ」
「あの人まだ存命中…」
「で、それ何なのよ」
「落ち込んでる野口さんと、それを慰めたい響助君の役に立つのではないかと思ってね」
「諭紀子は含まれないの?」
「…私はいいんです。元々私の勝手なお願いだったはずなのに、野口さんまでこんなに落ち込ませてしまって…」
 そこで、初めて諭紀子が口を開いた。力ない声で、顔を机に突っ伏したままだった。毬音は何か返したそうだったが、しかし言葉が見あたらないようだった。
 
 そんな諭紀子に、紺田がそっと近づいて言った。
「まあ、馬場については、後で個人的に慰めてあげるから…」
 それに対し、諭紀子は顔を上げることもなく、返答した。
「…紺田先輩のことは、嫌いじゃありません。言葉を自在に繰って、自分の思う状況を作り出す、その能力には尊敬の念すら感じています。でも、そういう事言う紺田先輩は、私嫌いです」
 それは一瞬嫌みなのかと思ったが、しかしどうやら一字一句間違いなく本心のようだった。故に、紺田は珍しくショックを受けたようだった。ふらふらといすの近くまで歩いてゆき、崩れかかるように座り込んで、そのまま突っ伏してしまった。
 そんな紺田のそばに、宮前氏が近づいてきた。手にしていた花器を、机の上に投げ出されていた紺田の腕の間に置き、菊を3本そこに差して、腕組みをした。
「どうだろう?」
「私は、お華ってよくわからないから…」
 問いかけられた中橋長官は、困っていた。
 
 
 
 紺田は数分で復活した。持ってきた資料を、意気揚々と掲げていた。
「さて。これが、園 和俊、二人がさっき会っていたという少年だがね、その園君に関する資料だ」
 紺田はそこで少し沈黙した。何かを突っ込んで欲しかったようだが、誰も何も言わなかったので、そのまま言葉を続けた。
「いわゆる個人情報という奴だ。外部に漏れるといろいろ社会問題になる」
「ここで君が持ってる時点で、既に社会問題じゃないのかな?」
 後ろから、宮前氏がきつい突っ込みを入れていた。
「いや、実際はそんな問題になるようなものはないです。殆どが私自身でまとめたものですから」
「まとめた? 何を」
「彼と話した内容と、その分析とか、だな」
「話したことあるんですか!?」
 諭紀子が起きあがった。紺田に食ってかからんばかりの勢いだった。
「ああ、ある。というより、悪いが君よりは親密な仲だな」
「何故…」
「愛し合っているから……と言うのは冗談だ」
 馬場のすさまじい表情の前に、紺田はあっさりと前言を撤回した。
 
「実際のところ心を許していると言うほどではないだろう、交わしている言葉だけを取れば、ね。ただ彼の場合…」
 そこで紺田は、毬音の方に目をやった。
「言葉を必要としないからね」
 ふんふんと、古瀬が頷いていた。僕は最初何のことかわからなかった。毬音の意思疎通の力を借りて、ようやくその意味がわかった。つまり、それと一緒だと。
「つまりそれは、違う方向から心を開いているということになるの?」
「確かに、字面通り心を開いてはいるな」
 紺田は、資料のうちの一冊を手にとって、ぱらぱらとめくりながら続けた。
「ただし。彼が自分で選び取った部分に限るがね」
「そういうのを、心を開いていないと言うんじゃないか」
「全くだ」
「つまり彼は、あんたにも心開いてないと。そいう事よね?」
「そう。自ら開くことは、なかった。ただ、ある程度こじ開けることは出来た。これがその結果だ」
「なんてやつだ…」
 
「あなたは…そんなことが出来るんですか?」
 毬音が驚愕の表情で紺田を見つめていた。それにはある程度の尊敬の念が入っているように見えて、僕は、それは違うぞと修正を入れたくなった。
「何も答えないから家までついて行ったら妹さんに会うことが出来たので、飴をあげようとしたらあっさり観念した」
「犯罪だ…」
「失礼な。ちゃんと本人の意思を尊重した結果だぞ」
「尊重ってのは、そうせざるを得ない状況を作って強引に意思表明させた場合も、成立するものなのかしら?」
「意思表明すら許さない君にそんなことを言う権利はないぞ、古瀬智羽。言っとくが、さっき君が食べ終わった健康プリンは、私のものだからな。後で金払えよ」
「まっ。あんた、あんな不味い物食べさせておいて、その上お金払えって言うの? 横暴じゃない!?」
「他人のもの無断で食べておいて、その上そんな言い草をする君の方がよっぽど横暴だと思うのだが。どうかね?」
 言い合いを続ける二人を、僕は身を縮めながら見ていた。いつこの理不尽な争いに巻き込まれるのかと怯えながら。諭紀子は紺田が持ってきた資料をひたすら読みふけり、そして毬音は、何かに思い当たったかのように、じっと考え事をしていた。
 
 
 
「もう一度、会ってみようと思うの」
 帰り際、毬音がそんなことを言い出した。
「私、やっぱり自分の力を過信していたのかもしれない。心は繋がるものだと、勝手に決めつけて。それに至るまでの努力を、しようとしなかった」
「いや、それは。だって、知らなかったんだし。仕方ないんじゃない?」
 ううん、と毬音は首を振った。
「もしかしたら、彼はそれを望んでいたのかもしれない。私たちの持つ力ではなく、たとえば、言葉で」
「いやだって、今まで馬場さんとだってろくに会話してなかったんだろ? だからこそ毬音に依頼が行ったわけで」
「それはきっと…彼女が彼に持つ思いと、私が持つ思いとは違うから」
「…?」
「現に、心を開かせるための努力をした紺田君には、彼はちゃんと応じているし」
「いやあれは、そういうのじゃないだろ。強引さに負けてと言うか。脅迫めいてるし。犯罪だ」
「それでも言わずに済ませることだって、出来たはずよ」
「…」
 
「無条件で他人を拒絶してる訳じゃ、ないと思うの」
「それは…そうだね、誰であれ無条件でそんなことをする他人は、あまりいない」
「だから。もう一度会って、今度は言葉で話してみようと思うの。私自身の心を伝えるために、私の意志で」
「そう…。そうか」
 それは、決して間違った行為ではないと思った。けれでも僕は、その毬音の行動に不満があった。それは決して正当なものではなく、単なる自分のわがままではあったけど。
「でも僕は、二人きりで彼に会うようなことをして欲しくない」
「…」
「わかってる。毬音が、そういうつもりで会いに行くんじゃないことも、僕の元から離れる意志が全くないことも。でも、なぜだか不安なんだ」
「そう…」
 
 毬音は、戸惑いと落胆の入り交じった表情を見せた。そんな顔はして欲しくなかった。僕は、解決策を見いだそうと、必死で頭の中を動かした。答えは、すぐに出た。
「だから…僕も一緒に行く」
「え?」
「僕も一緒に、園という人に会いに行く。変に思われるかもしれないけど、そうさせて欲しい」
「…」
 毬音は一瞬考えて、そして、首を縦に振った。
「わかった。じゃあ僕、一度学園警備隊の方に戻るよ」
「え、なぜ?」
「資料。あれ、ちゃんと見てなかったんだ。会うんだったら、読んでおいた方がいいでしょ?」
「そう。じゃあ、私ももう一度見ておく」
 そう言って毬音は、僕と一緒に駆けだした。
 
 
 
 
 
9.
 園 和俊。17歳。緑大のすぐ近くに住む高校生で、通っているのもここからすぐ近くの学校。その校内での評価は極めて良い、ただし交友関係といえるものが殆ど無いことを除いて。学校の授業が終わると、すぐ校内から消え失せる。そして多くの場合、緑大脇の森にある泉の側に来ている。何をしているのかは不明。端からは、何か遠い世界の言葉に聞き入っているようにも見える……。
 
 僕は、先日読んだ資料の内容を、繰り返し思い起こしていた。これから会う、園という少年についての予備知識。それを反芻することで、心の準備としようとしていた。
 隣を見ると、毬音が深く呼吸をしているのが見えた。彼女もまた、言葉を心の中で繰り返しているのだろうか。そう思うと、自分たちがなんだか似たもの同士のような気がして、妙にうれしくなった。
 
 
 湖、と言うには少々小さな、水の集まり。その側に、少年は座り込んでいた。それがきっと、園和俊なのだろう。何かを見上げるように、しかし、目は閉じたままでいる。確かに紺田ならずとも、なにか異世界と交信しているかのような印象を感じてしまう。そう思った。
 そして和俊が、二人に気づいた。毬音を見て、ああまたかとでも言いたそうな表情をした。そして僕を見て、少し驚いたような表情を見せた。
「こんにちは。また来たわ」
 そう毬音は挨拶した。少年は何も言葉を返さずにただ会釈をし、そして、僕の方をじっと見ていた。僕はそれにどう反応していいのかわからず、同じように会釈を返すのが精一杯だった。自己紹介が必要だろうかと一瞬悩んだが、すぐにその必要はないことに気づいた。
 
 風が、吹いた。かすかに水気を含んだ、心地よい風だった。そして僕の心の中に、これまでの記憶にない、誰かの意志が流れ込んできた。それが、目の前にいる少年、園和俊のものだと気づくのに、わずかな時間を要した。そして僕は、戸惑った。それはきっと、和俊の意志にも、少なからぬ戸惑いが含まれていたから。そしてそれは、きっと毬音にも伝わっている。
 沈黙。言葉の交わされない空間。ただわずかなそよ風のみが、かすかに意志を伝えあっている。そんな気がした。
 そして、和俊が口を開いた。言葉で意志を伝えてきた。
「あなたは…何をしにここに来たのですか?」
 それは答えに困る質問だった。
「何をしに…って訳じゃない。ただ、毬音についてきたんだ」
 風に心がくすぐられる感じがした。和俊が自分の言いたいことを理解したのだと、そう思った。
「あなたは、不思議な人ですね」
「なぜ」
「僕に対して、いや正確には僕の力に対して、さほど関心を持っていない。それなのに、わざわざ僕に会うためにここに来ている」
「いや、そうじゃない。本当に毬音に付いてきただけなんだ」
 そう言ってから気づいた。彼は、僕の本心を手に取るようにわかって、その上で言っているはずなのだ。だとしたら僕は、彼に会いたいと望んでここに来たと言うことなのだろうか。自分でもそれに気づくことなく。
「それはきっと、あなたという存在があるからなのですね…」
 
 和俊は毬音の方を見上げた。それは一瞬、羨望の言葉であるかのように聞こえた。だが次の瞬間流れ込んできた意志によって、それは否定された。強い強い、拒絶とも絶望とも言える感情。滑らかな物の、裏地にある棘(とげ)。色で表せば黒。
「異種なる存在であるはずのあなたを」
 それは言葉によって伝えられた。
「あなたにだって────」
 毬音の声が上擦っているのがわかる。それが前と同じ、諭紀子と二人で会ったときにもあった状況なのだと、そういう情報が流れ込んできた。
「諭紀子はきっと、そういう存在になれるわ」
 やっとの思いで、毬音はその言葉を絞り出していた。和俊の今持っている意志と感情が、毬音にとって大変な苦痛であるということがわかった。止めたいと思った。そのために自分は来ているはずだと、初めて気づいた。
 それに対して、和俊は牽制するかのような視線を送ってきた。そして、言葉が続いた。
「あなたがいるなら、やはり話しておかなければいけないようですね」
 
 
 
 
「確かに────」
 和俊の言葉が始まっていた。
「僕たちは、生物学的に大きな違いがあるわけではない。僕たちの持つ力にしたところで、実はそんなに大したことでもない」
 僕はただ、聞き入っていた。毬音の肩を抱きながら。
「人は元々、理解することが出来る。因果律に従った決定論的な法則が無くとも。今手元にある情報から、あるべき結果を自ら導き出すことが出来る。単なる予測ではなく、確信として」
 和俊の目は、じっとこちらを向いている。
「それは、人と人との間の、意思疎通に於いてもそうだ。例えば目の前にいる人が、どんな行動を取るか、どんな考えをしているか。ただ見ているだけでもわかることがあるし、ごく親しい間柄なら、殆どわかってしまうこともある。親が赤子の求めるものがわかるように。恋人同士が目で語り合うように。────僕たちはただそういう事を、より早く出来る。確実に結果を知ることが出来る。それだけのことだ」
 そこで和俊の視線は、僕たち二人から離れた。上を、空の方向を見ているようだった。
「ただそれだけのこと────それでも人は、僕らを異種として扱いたがる」
 異種。それはさっきも、言葉の中に出てきた。単なる奇人変人というレベルの意味ではない。自分たちとは根本から異なるもの。言ってみれば、人ではない存在。それはつまり、毬音や和俊は人ではない、若しくはそういう扱いを受けている。そう言いたいのだろうか。
「残念ながら、僕たちの持っている力を知れば、そういう意識を持つ人が多い。幸いあなたはそうでは無いようだけど」
 では僕以外の人間はみなそうだったということだろうか。僕以前に会っているはずの、諭紀子や、紺田もまた。表層にはなくとも、潜在的にそういう意識があるということか。
 
「それはある意味仕方のないことだ。人が持つ自衛本能のようなものだから。自分に害を為すかもしれないという可能性がわずかでもあれば、その拒絶の意志はなかなか消えることはない。もちろん、それを悪しき心として封じ込めてしまい、表に出さない人もいる。それをするかどうかは人によるけれども」
「でもそれは────」
 僕は、思わず反論していた。
「君が心を開けば────害のない存在であることを示せば、解消できるものじゃないのか?」
「そうかもしれない。たが、出来ないかもしれない。もっと悪くなるかもしれない。残念ながら、その結果を事前に知る力までは、僕らでも持っていない。だから実際試してみるしかないのだけれども────」
 そこで、和俊の視線は毬音に向いた。
「その結果どうなったかは、僕よりも寧ろ彼女の方がよく知っていると思う」
 そこで毬音は、びくっと震えた。なにか、いやなことを思い出したような。そんな印象を受けた。それが何かまでは、もちろんわからなかった。
「確かにあなたは」
 和俊は毬音に語りかけていた。
「それ以後も、力を使い続けている。人と人の思いを紡ぐべく、意志を風に乗せ続けてきた。多くの人の心を結びつけてきた。だが────あなた自身の意志が風に乗ったことは、それ以来一度も無い」
 毬音の表情がこわばった。僕は毬音の顔を見つめていた。見つめながら、毬音と出会ってから今までのことを思い起こしていた。確かに僕は、彼女の心の波長を知らなかった。
 
 無音。森の静寂とはまた違う、そして何の意志も感じられない沈黙が続いた。
 そして暫く後に、和俊が口を開いた。
「もう一つ。僕が心を開けない理由がある」
 毬音よりも、むしろ僕がその言葉に関心を持った。和俊はそれを了解していたのか、こちらを見てわずかに頷いた。
「ただそのために、ここから少し移動しなければならないけど。いいかな?」
 僕は毬音の方を見た。毬音が頷いたので、僕の方から返答を返した。
「いい。行こう」
「わかった。それじゃ」
 和俊は立ち上がり、先導に立つように歩き始めた。僕たちは、その後をついて行った。
 
 
 
 
 湖を離れ、山道を歩く。ひたすら歩く。距離としてはわずかだが、狭い道に足を取られ、想像していたよりもきつさを感じた。
 途中に、再び水が見えた。さっきまでいた所よりも、もっと水深が浅く、広い広い水溜まりのようだった。そしてそこには一面に、突き出るように枯れ木がそびえ立っていた。まるで木の墓場だ、そう感じた。
「そう。これは間違いなく、木の墓場だ。人の手によって水が止められ、森の一部はこうしてただ、その存在していた証を残すのみとなった。────だが、この光景を美しいという人もいる」
 確かにそれは、ある意味非常に幻想的な光景にも見えた。
「そういう感情を否定することは出来ない。理由や事情がどうあれ、それがその人の持つ思い。人としての表れだからだ。だが同時に、そこにある事実を否定することも出来ない────」
 和俊の目は、再び目指すべき場所の方向を向いていた。
「あなた達がこれから知ることも、また同じだ。事実は事実としてそこに存在し、そしてそれに対するあなた達の思いが、これから生まれる。もしかしたらそれは、僕が今持っている思いとは違うかもしれない。だが、たとえそうなる事になっても僕は────あなた達に真実を知って欲しい」
 そう言って和俊は、再び歩き始めた。僕たちもまた、その後に付いていった。
 
 
 
 
 道はもはや無かった。歩くのはとてもきつかった。そろそろ休みたいな、そう思ったとき、和俊が一度立ち止まり、後ろにいる二人の方を向いて頷いた。目的の場所に着いたのだと、僕は悟った。そして和俊は、ある場所にとゆっくり歩いていった。
 そこには穴があった。人一人が入れるぐらいの入り口しか見えない。木々と草で覆われて、端から見たのではとうてい気づかないであろう場所。そしてそれがどこに通じているのかもわからない。
「ここを知って欲しかった」
 そう言って和俊は、手招きをした。僕と毬音は、それに従って穴に近づいて行った。何か盛り土のようなものがあって、その上を草木が覆ってしまっているのだとわかった。穴は盛り土の中に入るためのものだった。自然のもの、とは思えなかった。
「そう。これは、人が作ったもの。形は崩れているが、間違いなくそうだ」
 毬音が息をのむのがわかった。僕はただ、毬音の顔をじっと見ていることしかできなかった。
「あなたには、やはりわかるようですね」
 和俊はただそれだけしか言わなかった。言葉としては。しかし、彼と毬音が何を感じているのか、それは僕にもすぐにわかった。どちらの力によって流れてきたのかはわからない。あるいは、両方かもしれない。そしてそれは、それ以外では知り得ないもの。言葉では表すのが難しいものだった。
 ここには、何らかの意志がある。
 毬音の動揺が伝わってくる。今まで知らなかったもの。知っていて当然であるべきだったこと。それを知らなかった自分。衝撃。悔い。責め。そんな感情が入り交じっている。
「毬音…」
 その呼びかけにも、毬音は反応しなかった。そこまでの衝撃を受けるものなのだろうか、と僕は疑問に思った。
 
「あなたは、全ての情報を得ているわけではないですからね…」
 そう、和俊が言ってきた。
「僕の方で、意図的に抑制しています。あなたに全てを伝えるのは、きっと彼女の役目だと思いますから」
 そう言って和俊は、上から後ろを見渡した。木々の枝と葉が、そこを覆っている。あの場所、毬音と初めてあった森のドーム、あそこに似ている。そう思った。
 毬音は口を固く閉ざしたままだった。拳を固く握りしめていた。ここに何があるのかはわからないが、今毬音に全てを聞くなどとうてい無理だ、そう思った。
 代わりに僕は、和俊に訊いていた。
「ここにあるのは、いったい何なんだ…?」
 和俊はゆっくりとこちらを向き、しばらく考えた後、言葉で答えを返してきた。
「記憶」
「…誰の?」
「この森に生きてきた者の。そしてこの森そのものと言ってもいい」
 それは、なんとなくわかるようで、しかし理解しがたいものだった。あまりにも抽象的すぎた。僕が理解しきっていないことは、和俊にも伝わったようだった。
「そうですね。じゃあ、もう少し具体的な対象に絞って話しましょうか。記憶そのものを持っているのは、この森。木々の集合体としての、森」
「木の記憶…ということか?」
「それはあまり正確じゃない。そもそも、木々の一本一本は記憶と呼べるほどの大きな情報を持つことは出来ない。意志ですら微弱で、ふつうの人間では感じ取ることが出来ないほどだ。だが────」
 
 和俊は、森全体を見渡すように首と視線を動かした。つられて僕も、それを追っていた。
「大きな集まりになれば、別だ。木そのものとは別の、集合としての意志と情報が、そこに現れてくる」
「集団心理…?」
「うん。きっとそれに近いものがあると思う」
「じゃあ、その記憶というのは、木々の集団意識のようなものということなのか?」
「そう、手段としては。ただ、人の集団心理がそうであるように、集合体の意志というのは極めて気まぐれで、混沌としている。論理的な方向性というものがない」
 そこで和俊は、僕の目をまっすぐに見つめてきた。毬音の方を一度見て、そしてまた僕の方を見た。
「だがそこに、方向性を与えられるものがいたとしたら。あるべき情報を整理し、集団の再配置を促せる存在がいれば、そこには記憶と呼べるだけのものが生まれる」
 そこで僕は、はっと気づいた。
「それが────君たちということなのか?」
「実際に記憶を作ったのは、僕たちの祖先に当たる人たちだけれども」
 和俊は遠い目をした。文字通り、遠い場所を見ていた。僕は毬音を見た。まだ、何かを感じ取ってそれに耐えているようだった。
「毬音が、今感じているのは────」
 僕は和俊に問いかけた。
「その、記憶なのか?」
「…そうだ」
 
 和俊は、じっと毬音を見つめた。僕は、和俊の方を見ていた。じっと動かない毬音。いっそその心境を、流してくれればいいのに。毬音と、意志も感情も共有させてくれればいいのに。あなたにはその力があるはずだ。そんな思いだった。
「それは出来ない。確かに僕も、あなたに彼女の支えになって欲しいとは思う。だがさっきも言ったように、それは彼女自身の意志によるべきだ」
「…」
 でもその意志は、いったいいつこちらに向けられるのか。もしかして、ずっとずっと永遠にこのままということはないのか。このまま押しつぶされて二度と僕の方を向かなくなる、そんなことはないのか。
「────大丈夫。もう、殆どの記憶を、休むことなく受け入れている。彼女は強い、少なくとも僕よりは」
「…」
「僕は、三日かかった。それを受け入れるのに、さらに三日かかった。そしていまだに、人を受け容れることは出来ない────」
 だが、彼女なら。野口毬音なら。そんな期待を込めた思いが、僕に伝わってきた。そして気づいたときには、和俊はその場からいなくなっていた。
 
 
 
 
 それからどれだけの時が経ったのかわからない。毬音がようやく口を開くようになり、肩を貸すようにして歩いて森を出て、寮の自分の部屋にまで連れてきた。ただ、その記憶だけがあった。記憶だけだった。感情が伴わない、遮断されていた。大声で泣きはらし、疲れ、顔が痙攣したまま宙を見つめている。そんな心境だった。
 そして眠気が来た。毬音は側にいる、今は自分の手元にいる。だから安心だ。そう思うと、眠りたくなった。とにかく寝たかった。
 毬音は横になっていた。じっと目を開いていたが、そんな僕の心境を察したのか、そっと目を閉じて眠ってしまった。それを見届けてから、僕も横になった。眠りはすぐに訪れた。
 
 
 
 どれだけ眠ったかわからない。そして、まだどれだけ眠るかもわからない。ただ唯一わかるのは、それが夢であるということ。夢の中で、毬音が語りかけてきているということ。
 
 私には、心が見えるの。
 
 毬音はそう切り出した。
 
 それが、当たり前だと思っていた。
 人の心、動物の心、木々の、草花の心。
 それは生命の生きている証。魂の響き。私はそれを感じ取れる。
 相手が私を受けて入れてくれれば、心に語りかけることもできる。
 
 生まれたときからずっとそれに触れ続けてきた。
 語りかけてきた。
 それは私の日常だった。
 これは全ての人間に、当たり前にできること。そう思っていた。

 でも、違った。
 
 
 それを理解したのは、小学生の時。
 とても仲のいい、友達がいた。
 彼女は私を認め、わたしも彼女を信頼していた。
 その心には、何らのやましさも見られなかった。
 だから、語りかけた。心に直接。
 
 言葉は、伝わった。彼女の様子から、心から、それは分かった。
 でも、私の言葉だということは、理解されなかった。
 戸惑った。
 そして、何度も何度も語りかけた。
 どうしてわかってくれないの?
 私が話しかけているんだよ。
 あなたが毎日顔を合わせて、一緒に笑いあってる、まりねだよ。
 
 そしてその子は、学校に来なくなった。
 「見えない人」の言葉におびえ、精神に不調を来してしまったのだ。
 
 
 そのとき、初めて気づいた。
 私に心が見えるのも、語りかけることが出来るのも、みんな特別な力だということに。
 そして、その力のために友達を傷つけ失ったということも。
 
 理解し、受け入れる事ができない人には使ってはいけないもの。
 時にはそれ自体が、争いの種にすらなりうるもの。
 それが、私たちの持つ力────
 
 
 



 
 
 夢の記憶がまだ鮮明な頃。僕は目を覚ました。思考が戻ってきていた。夢の意味を考える意志が蘇ってきていた。だが、それを考える暇は、無かった。
 横で眠っていたはずの毬音は、そこにはいなかった。慌てて部屋中を見渡した。机の上に、メモ用紙があった。ひったくるように掴んで、読んだ。二度読んだ。
 
『あなたに、全てを伝えたいと思います。さっきの場所にもう一度来てください。』
 
 僕はそのまま飛び出していた。
 
 
 
 
 
10.
 空は曇っていた。それは、これからあることを暗示している、そんな気分になってなんだか嫌な気分になった。最も、晴れていたらいたで、自分がこんな気分なのにと悪態をついたことだろう。人間は勝手だ。人間は勝手だ。そう心の中でつぶやきながら、森の中を走っていた。
 土が撥ね、時に盛り出た木の根を蹴る。幹に手をかけると音を立てて枝が鳴る。どれだけの時間をかけてそこに着いたのかわからない。緑に覆われた盛り土の前で、僕は両手を膝で支えながら息を切らしていた。毬音はそこにはいなかった。5回ほど大きな息をし、そこにある穴の中に入っていった。迷いはなかった。
 
 
 
 入り口からのみわずかな光が差す、薄暗い空間。通り道はわずかに下に傾斜していて、その先に広くなっているところがある。隅にはめ込まれた木の柱が見える。そして向かいの壁、入り口を見る位置でもたれかかっている人の姿があった。毬音だった。
「明かりが必要かしら?」
「いや…僕はいい」
「そう。ならつけないわ」
 そう言って毬音は、壁から離れた。こちらに向かって歩いてきた。僕も、毬音に向かって歩いた。おそらくはこの穴の中心であるところで二人は出会い、足を止めた。毬音が腰を下ろしたので、僕もそれに習った。天井を見渡し、そして僕の方を向いて、毬音が語りかけてきた。
 
「ここは、人の手によって作られた場所。それはわかるわよね?」
「うん」
「何の為だかわかる?」
 僕は、穴を見渡してみた。特別なものは何も見あたらなかった。
「わからない。何があるの?」
「…何かがある訳じゃないの。言ってみれば、この場所そのものに意味がある。そして、この場所を留め、遺しておくために、わざわざこんなものを作った…」
 毬音は、ゆっくりと上を向いた。そこには何もなく、ただ固められた土の天井があるばかりだった。きっともっとその上、この盛り土の外の方を向いているのだと、僕は思った。
「いつの頃かわからないけれど、この森には記憶が託された。それは、決して短い時間では無く。木の一本一本が育つのを待ちながら、長い長い時間をかけて作り出されていった」
 さらさらと、土の流れる音がする。毬音の右手が、手元の土を取って上から流していた。土は地に落ち、粒が散逸してゆく。その一粒一粒がどこへゆくのか、落ちた時点では全く分からない。それでもその集まりは、次第に形ある、錐形の山へと成長していった。
「記憶は森の全てが有している。ただしそれは、私たちしか見えない。生とし生けるものの全てと心を通わすことの出来る、私たちしか。そして、私たちであっても、それをどこからでも見ることが出来るわけではない。────ただ唯一、はじめに記憶が形取られたこの場所、今も思いが交差し続けるこの場所でのみ、見ることが出来る…」
 
 毬音が、再び僕の方を見た。光が薄くてよく見えなかったけれども、その眼差しだけははっきり見える気がした。それほどまでに、強固な意志が伝わってきた。
「あなたに見せられるのは、そのほんの一部でしかないけれど…それでもあなたが望むのなら、それをお見せします」
 僕は頷いた。毬音の目が閉じ、そして僕の目も閉じた。暗闇と静穏が周りを包んだ。そして記憶がやってくる。毬音の心を介して。
 
 
 
 
 
 毬音の心から流れて来るもの。
 それは、かつてこの地で起こったことを再現するもの。森の歴史であった。太古の昔より、森に住む者たち。生とし生ける全ての者たち、獣、虫、魚、鳥、木々、草花。それらは全て共に生き、共に喜びを分かち合う存在だった。
 その中に混じって、高度な知能を有する者たちがいた。全ての生物の魂の響きを感じ取り、その仲介役として存在する者たち。同じ種族が、当時方々の山河森野に根付いていた。
 これらの者たちがいつ頃からいたのかはわからない。どこから来たのかもわからない。ただ、確実に彼らはそこにいた。自分たちはずっとそこに居続けると信じて。
 私たちの原点に当たる者たち。
 
 
 だがある日、外部からの来訪者がやってくる。
 いつの頃からか、その異種族はこの島々に定住し始めた。彼らの祖先は、海を渡ってこの島にやって来た。海の向こうには、彼らの築いた文明がいくつも栄えているのだと言った。音の響きの違い、言葉によって互いの意思疎通を行っていた。
 彼らは、自らを「人」と称した。
 「人」は最初、友好的であった。土、水、木々、風。これらと共に、生きることを、快諾した。定住に成功した「人」は、少しづつその生息域を広げていった。
 この森にも「人」がやってきた。
 我々の持つ力は、彼ら「人」にはない。「人」は当初、我々を畏怖の目で見た。力の意味を知り、敬服する者もいた。崇め奉りもした。そこには争いはなくとも、大きな隔たりが存在した。
 でも、そのような関係は、長くは続かなかった。我々と「人」とは、作りも外見も似ていた。ただ、意思疎通の方法が異なるだけであった。しかし我々の意志は確実に彼らに伝わったし、無論彼らの意志を理解できた。そして、我々の中にも、「人」の言葉を理解できるようになるものが出てきた。
 互いの間にあった隔たり、違和感は次第に消えていった。生活をともにし、いつしか「人」と恋に落ちる者も現れた。
 幸せで、平和な時であった。
 
 
 だがそれは、終わりのある平和だった。
 旺盛な繁殖力を持つ「人」。その数は次第に増殖してゆき、元からの森の存在を脅かすまでになっていた。それは、「人」がこの地にやってきたときからの既定事項であった。「地に満ち足りよ」。それが「人」の宿命だったのだ。
 年を追う毎に数を増す「人」。その「人」が生き延びることには、多くの犠牲が必要であった。それは、確実に先住者の存在を脅かすものとなっていった。
 
 危機が訪れた。少なくとも我々は、そう感じた。
 
 我々そして我々の同族は、「人」の心に、抑制と共存を訴えかけた。だが、既に多数者となっていた「人」は、その訴えを黙殺した。
 そして、至る所で、我々と「人」との衝突が起きた。
 数の力で圧倒的に勝る「人」。彼らは、抗う自然の力を討ち、切り払い、焼き払った。それに抗し、そして滅んでいった同族もいた。
 彼方から伝わる断末魔の叫びは、この森に住む我々の心を苦しめた。伝播する憎悪感情は、この森にも対立の火種を植え付けていた。
 かつての平和は、もうそこにはなかった。抗って争うか、座して死を待つか、それとも…。
 そして、我々は選んだ。戦いを避け、生き残る道を。たとえ僅かとなっても、滅びのない道を。今や絶対多数者となった「人」と同化し、「人」として生きる道を選んだのだった。
 
 既に混血も誕生していた「人」との同化は、さほど難しいことではなかった。だが、広大な森は消えた。増え続ける「人」が生き残るには、森を切り開くしかなかった。その事実は、「人」として生き、しかしかつて「人」より森と共に生きてきた我々の心を苦しめた。
 森を犠牲にして生き延びた己。その深い悔恨から、自らの証を消し去ろうとする者もいた。昔の姿に戻ろうと、より険しい森の奥深くに消えていった者もいた。我々のように、「人」として生きながらも、こうして記憶と事実を留め置こうとする者も、いた。
 そして時は流れ、人の築いた文明がこの島を席巻する。
 かつてこの地に住んでいた知的生命の存在は、完全に忘れ去られていた。それを示すものは、この小さな森に残る記録、そして、「我々」の子孫にわずかに残された力のみ。
 
 
 それは、わたしのちから………
 
 
 
 
 
 
「……」
「……」
 気がつくと、視野に映っているのは毬音の姿だった。何か答えを期待している、そう思った。だけど、僕には何も答えられなかった。答えが出なかった。今まで全く感じていなかった隔たり、それを突然突きつけられたような感じだった。肯定も否定もない。思考停止だった。そしてわずかに、この事実から逃げたいという思いがあった。
 毬音は、そんな僕の態度に失望したようだった。心が閉じてゆく、そんな感覚が伝わってきた。慌てて手を伸ばしたが、遅かった。毬音は身を固くした。目を合わせてくれなかった。
 どうしたらいいのか、ますます分からなくなった。出すべき言葉が頭の中で提示され、そしてそれが全て否決された。何を言っても通じない。いや。正確には、通じるだけの言葉が、今の自分には言えない。
 僕は毬音をそっと抱きしめた。明確な意志はなく、ほとんど混乱の中でしてしまったことだった。毬音の身は固いままだったが、それでもそれ自体を拒むことはしなかった。僕も、ずっとそのままでいた。
 
 
 そして、長い時が経った。毬音は、何も言わない。こっちを見てない。心は閉じたままだ。
 言葉は出なかった。それでも、思いは形を見せてきた。今すぐに、それを伝えたいと思った。だが、僕一人では、心を直接通わすことはできない。毬音がそれを望まない限り、不可能なのだ。それでも僕は願った。一心に願った。
 届け、届け。あの夜出会ったときから、僕の心を支配してやまないもの。一生を費やしてもかまわない、生命を賭してもかまわない。純粋に毬音を愛する、毬音と共に歩みたいと願う心。人じゃない?それがなんだ。そんなの関係ない。人は人しか愛しちゃいけないのか?だったら、人ってなんだ。そんな線引き、誰がするんだ。できやしない。いや、意味がない。毬音は毬音だ。僕の愛した毬音だ。それでいいじゃないか。僕が味方なら。もし毬音を侮辱する奴がいたら、僕が擁護する。もし毬音を排除する奴がいたら、僕は一緒について行く。もし世界中の人類が毬音を攻撃しても、僕は決して見捨てたりしない。神仏悪魔が相手になっても、僕は決して毬音を裏切らない。ずっと一緒にいる、最期まで守ってみせる、だから、だから、…
 意識が混濁してきた。これを言葉にしなければ。そんな思いを最後に、僕の意識はとぎれてしまった。
 
 
 
 
 
 なにかが、来る。
 響きが、伝わってくる。
 穏やかな、だけど力強い波動。
 でもそれは届かない。
 達することが出来ない。
 
 軟弱な壁。つつけば壊れる壁。
 だけどそれは何層にも折り重なって、来たらんとするものの行く手を阻む。
 聞こえる。伝わる。感じ取れる。
 でも届くことはない。
 なぜ、今更?
 
 時が過ぎた。
 少し飽きた。そんな形容があっている気がする。
 まだ来る。まだ響いている。
 そんなに私に伝えたいの?
 それとも私は、知るべきなの?  
 
 意地になっている自分がいる。
 完全じゃない自分がいる。
 それは私が人だから?
 それは私が彼らの子孫だから?
 きっとそれは、答えにはならないと気づく。
 
 まだ来る。まだ来ている。
 それは届いてはいない。
 私はこれを、まだ知らない。
 知りたいと思った。そのためには、届かせる必要がある。
 私はこれを、受け入れるべきだと思った。
 
 そして道が開かれる。
 雲間の水蒸気が蒸散するように。
 カルシウムイオンが卵子の性質を変えるように。
 波の行く手を阻むものは消える。
 来た。
 
 
 共鳴。
 それは、私の響きと彼の響きが起こすもの。
 互いに異なる存在が、新しく生み出したもの。
 そして生み出された振幅が還って行く。
 私の思い、伝えに…
 
 



 
 
 視野に映る響助の顔。眠っているように見える。私はどうすべきか躊躇した。でも響助はすぐに目を開けた。語りかけてきた。
「毬音…」
 音と姿の方向に、私はそっと手を伸ばした…。
 
 
 
 
 
 
 
 
 泉のほとり、いつもといるところとは違う場所で、彼は佇んでいた。事の成り行きに心を傾けながらも、その全てを知ることはなく。ただ、遠くから見守りながら。
 終わったという認識が、彼の中に生じた。そして始まると。
「心が僕の中を流れ、思いが僕の中を巡る。泉から流れ出た川が大地を抜けて海に注ぐように。そして僕は、その水の流れにただ手を浸す事が出来るだけ…」
 そう呟いて、彼は歩き出した。もうそこにいる必要はないと判断したからだった。だが、二、三歩歩いたところで立ち止まった。彼の後ろに人の気配を感じたからだった。
「その…くん…」
 園和俊はゆっくりと振り向いた。もうすっかり見慣れた顔、馬場諭紀子の姿がそこにあった。
「何か?」
「…ここに…今ここに行った方がいいと、ある人に言われて…誰かは言えないのだけど」
「あの人か…。困った人だ」
 そう言って和俊は、再び歩き出そうとした。
「待って…何を話したらいいのか分からないけど、とにかく待って…!」
 諭紀子の言葉に、和俊は再び立ち止まり、振り向いた。
 
「何を話したいのか、それは僕には分かっている。分かっている、けれども、僕には何も出来ない」
「どうして…」
 諭紀子の目は、真っ直ぐに和俊を捕らえていた。
「私が…私があなたを、受け入れきっていないから?」
「違う」
 諭紀子の視線に耐えきれないとでも言うように、和俊は大きく視線を逸らした。
「あなたの所為じゃない。あなたを受け入れられないのは、むしろ僕の方だ…」
 和俊の拳が、固く引き締まった。
「確かに僕には、人の心を受け、伝える力がある。かつてこの森に住んでいた者のように。だが同時に、僕の器はもう人のものでしかない。力がありながらも、容量としては人のそれしか持てない。だからその分、出来るべき事が出来なくなってしまっている────」
 和俊は、諭紀子に背を向けた。
 
「言葉の大切さを語ってくれた君には、とても感謝している。だけど僕には、それ以上の感情を受け入れることが出来ないんだ…」
 そう言って和俊は歩き出した。一歩、二歩。それをじっと見つめていた諭紀子は、決意を固めたように胸に手をやり、叫んで呼び止めた。
「でもっ」
 一瞬の静寂。諭紀子の言葉がそれに続く。
「あなたはまだ、これから大きくなれるのよねっ!?」
 和俊の足が止まる。ゆっくりと振り返る。
 風が、吹いた。
 草葉、木の枝、空を流れる雲。静かに、それでも確実にそれらは動き。そして諭紀子は、動き始めた心に向かって駆けていった。
 
 
 
 
 
 
 
 幾年かが過ぎた。森はまだ、そこにあった。 昔に比べてずいぶん人が入るようになったのか、道はすっかり人のそれに近くなっていた。それでも、目指す場所に近づくにつれて、それはかつての記憶に近い姿になっていった。
「あそこはまだ、ずっと変わらずにいるかな?」
「それは無いと思う。生きているものは全て変わっていくものだから。…ここ気をつけて」
 そう言って毬音は、傍らにいる娘の手を取った。
「…おんぶしていこうか?」
「ううん、歩ける」
 そう言って珠茂(たまも)、僕と毬音の娘は、すっと先頭にまで歩んでいった。
 
「行こう」
 その言葉に従うように、僕と毬音もまた歩き出した。
「でも────」
 そして毬音の言葉が続いていた。
「あそこから込められた思いは、変わっていないと思う。切り開かれ、失われた部分はあっても、残っているものは必ずある…。だからこそ私は、この子をそこに連れて行きたい」
「うん。そうだね」
 空を見上げながら、そう答えていた。
 
 
 目指す場所は、殆ど昔のままそこにあった。枝葉が空を覆い、わずかに見える隙間から雲が流れてゆくのが見える。あれから人が入ることもなかったのか、背丈の高い草が一面に生えていた。進みづらくなった珠茂が、躊躇しつつこちらを見上げていた。僕はかがみ込んで、両手で珠茂を抱き上げた。
 毬音が目を閉じ、耳を澄ます。風が吹いた。草木の葉がこすれあい、さあっという音をたてた。久しぶりにここにやってきた自分たち、そして新しい客を歓迎している。そんな気がした。珠茂(たまも)はそんな様子に驚いたのか、目を大きくしながら周り中を見渡していた。
 
 そんな珠茂の頭に、毬音がそっと手を置いた。目はもう開き、珠茂をじっと見つめていた。話したいことがある、そう悟った僕は、毬音の言葉を待っていた。そして毬音が、珠茂に語りかける。
 ここには、人の思いがあります。
 ここには、森に住む者たちの思いがあります。
 ここには、私たちの思いがあります。
 耳を澄ませてください。きっと言葉が聞こえるでしょう。
 心を開いてください。きっと思いが感じ取れるでしょう。
 大気を通して届くものは人の綴った思いの結晶。
 時を経ながら響くものは生きるものの命の調べ。
 あなたには、どちらが聞こえているのかしら────────
 
 
 
2004年4〜8月 執筆/初版公開
2012年2月   補筆 

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