4.
僕の仕事はSEだ。システムエンジニア。SEと言っても最近では職種の幅はずいぶん広くて、パソコンのトラブル対応するだけの人間までもがSEを名乗ったりして訳がわからなくなっているが、僕のやっているのはプログラマ兼顧客対応あんど簡単な設計という、まあ一番ありふれたSEのパターンだ。
仕事はまあ、忙しい。月月火水木金金という言葉が戦前の日本陸軍にはあって、さらに戦後には昔陸軍今総評という言葉があったそうだが、一頃のSEと言う職業は、日本陸軍や総評に勝るとも劣らない忙しさぶりだったらしい。
とはいえ、最近では世の中の流れというものも後押しして少しは楽になった。流れとか簡単に言うけど、その流れを作るために血のにじむような努力をしてきた人たちが確実にいるわけで、そういった人たちには感謝しなければならない。この世に正義は、ほんのわずかだけど存在はするのだと思う。
そんなわけで僕は、土曜日は午前中に少しだけ入った作業を終えて、家路に戻る途中だった。本来休日である土曜日をわずかでも潰されるのはシャクだが、しかしその分給料に色がつくと思えば、何とか我慢できるというものだ。その色がつく分を見越して、今日は何か買い物でもしていこうか。そう思った矢先、ふと今日の予定を思い出した。
奥倉さんが勝手に決めたことではあるが、今日は僕の部屋に女性二人がやってくる。下田さんと、奥倉さん。現時点でのステータスでいくと、何となく姉にしたい女性と、何となく姉っぽいけど姉にしたくないような気がする二人だ。
さて。そう考えると、何を買っていくかが悩むところだ。恋人にしたい女性にと言うのなら、しゃれたワインを買い込んで、ついでにステーキ用の肉とジャガイモでも買って、早めに帰って料理の準備でもする、というのが良いプランなのかもしれない。
しかし。相手は姉だ。否、正確には姉ではなくて、姉にしようと口説き落とそうとしている女性なのだが。ついでにおまけ付き。これが、もうすでに本当の姉だというのだったら、たぶん何も遠慮はいらない。ポテトチップスの袋だけ買っていっても、文句は言われるだろうがまあそれで穏便に済ませることも不可能ではない。
だが。これから姉になってくださいという女性には、そんな失礼な真似はできない。一応お願いする立場なのだから。かと言って恋人として口説き落とすかのような錯覚を与えるシチュエーションを作るのも良くない。あくまで僕は、下田さんには姉になって欲しいのではなくて、恋人にしようというわけではないのだから。
そう。姉にしたいんだ。姉に。
そう自分に言い聞かせるように小さく聞こえないぐらいの声でつぶやいてから、僕は電車を降りて近所のスーパーに向かった。いつもの癖で、この時間帯に安く仕入れられる物品のリストが何も考えずに脳内にリストアップされていく。だが、今日はそれを買っていくかどうかわからない。まず、何を買うべきか決める。いつもなら買うような値引き品ではなく、弟が姉を喜ばせるような品を買っていかなければならない。
・・・簡単に思いつくものではないな。そう、歩きながら思っていると、道の向こうから歩いてくる女性の姿に見覚えのある事に気づいた。奥倉有香、今の僕にとって味方なのか天敵なのかよくわからない人物であり、今日の会合というか飲み会というかよくわからない集まりを強引に企画した人物だ。
「よっ。買い物の帰り?」
向こうから声をかけてきた。
「いえ、仕事帰りです。買い物はこれからしようと。」
「土曜に仕事かあ。タイヘンだね。仕事、何だっけ?」
「SEです。言ってませんでした?」
「んー、聞いたかもしんないけど、たぶん訊いてない。ま、今知ったからどっちでもいいよ。」
相当おおらかな性格のようだ。こちらに危害が及ぶようなことさえなければ、とてもいい人なんだと思う。
「いつも土曜出勤?」
「いえ・・・いつもと言うほどでは。最近は結構休めますよ。」
「そっか。あたしは研究員なんだけど、まあでも、忙しいときは忙しいし、そういうときは土日も出るしね。そういう意味では同じようなものか。」
「え。研究員・・・何ですか。」
「そ。植物系の新薬開発のね。と、ここまで具体的に言う必要はないか。」
「理系だったんだ・・・。」
「ん、なに? 文系だと思った?」
「いや、特にそういうわけでは・・・。ただ、下田さんが文系だから、なんかその友達も勝手に文系なのかと想像してしまっていたみたいです。」
「んー・・・まあ、征子は確かに分類すれば法律系だから、文系か。でもあの仕事って、知ってる? 単純な文系には超難しくて、なれないんだよ。」
「えっと、ちょっと調べたことあります。法律や司法制度に熟知していることはもちろん、新戸籍システムを管理するための専用データベースシステムにアクセスして解析したりプログラムを組んだり、そういう情報技術の力も要求されるって。」
「そ。あなたの仕事とちょっとにてるわよね。」
「似てるって言っても・・・。」
僕の仕事と比べて、どっちが難しいだろうか。いや、難しいとか以前に、戸籍を単独で管理変更する権限と責任を背負っているのだ。それを考えると、似てるなんてレベルじゃないと思う。
「ま、確かに征子の仕事というか資格の方が上な気はするけどね。弁理士の次に難しいとも言われてるらしいし。」
「ですね。そう考えると下田さん、凄いですよね。」
「でも、貧乏だけどね。」
「・・・ですよね。何でなんですかね。」
「まだ制度ができて日も浅いしそんなに仕事の引き合いがあるわけでもないって事なんだろうし。・・・まあ、仕事の難しさと収入は、必ずしも比例しないって事よね。労働市場経済の失敗の一つかしら。」
「・・・いきなり話がでかくなりましたね。」
「あたし、でかい話好きだから。話を大きくするのも好き。」
「それは何となくわかります。」
「そこはちょっと、気の利いたお世辞を言うところだなあ。要勉強。」
「はい、すみませんでした。」
二人並んで会話をしている間に、スーパーの前までついていた。
「ん。じゃ、ここで今日の買い物してこうか。」
「そうですね。実を言うと何を買ったらいいのか迷っていたので、一緒に選んでもらえるとうれしいです。」
「選ぶって、そんな大層なもん買う必要ないわよ。飲んで食って騒げる材料があればそれでいいの。」
「奥倉さんはそれでいいかもしれませんが、下田さんはそうじゃないかもしれませんよ。僕は、下田さんを姉としてもてなしたいんです。」
「・・・本当に姉としてもてなしたいんなら。」
奥倉さんは、帰りながら言ってきた。
「『姉だから』って特別扱いする、その発想をまず捨てるべきじゃないかなあ。」
「!!?」
奥倉さんは、やれやれというように両手を挙げてそして歩き出しながらつぶやいた。
「英哉君はやっぱり、自分が本当は何を望んでいるのか、真剣に考えた方がいいと思うな。」
「・・・。」
「・・・ま、今のはあたしの独り言だから。とりあえず、適当なもの買っていこうか。」
「それではっ。始めましょうかぁっ!」
「何を。」
僕の部屋で、女性二人の掛け合いが始まっていた。結局、簡単に炒め物ぐらいは作ろうという僕の主張のもと、僕は一人で台所に立っていた。居間には下田さんと奥倉さんの二人。おおかた、もうアルコールを入れ始めているのだろう。やれやれと思うが、しかし世に聞く姉というのはだいたいこんなものだという気もするから、そう考えるとちょっと嬉しくもなったりする。何が嬉しいのか、自分でもよくわからないが。
皿に盛った炒め物二品を持って、自分も部屋に入っていく。
「はい、たまごチャーハンにゴーヤチャンプルー。3人しかいないから、これで十分ですよね。」
「十分十分。」
そう言いながら奥倉さんは、小皿を取って、食品をとりわけ始めた。
「はい、征子は普段食べてないんだから、たくさん食べる。」
「ちょっと。何その、貧乏学生に対するかのような扱い。」
「似たような境遇でしょぉ?」
「そうなんですか?」
僕が興味津々の様子を隠しもせずに訊くと、下田さんは少し目を逸らして答えた。
「別に・・・バイトしてるし、生活には困ってないわよ。」
「でも、本業の方はさっぱりなんだよねえ?」
「うるさい。」
「でも。そんなところに、救いの王子えいさいざえもん君がやってきたわけだ。」
話が核心に近づいてきた。
「誰よえいさいざえもんって。」
「名前から察しなさい。」
下田さんがこっちを見る。僕はあははと笑ってみた。彼女はため息をついてしまった。
「・・・だめですか?」
「駄目と言うより・・・聞いたこと無いわ。わざわざ戸籍こさえてまで姉をほしがるなんて。」
「単に前例がないというのが理由ですか?」
「ん・・・そうは言わないけど・・・。」
「確かに前例はないかもしれません。でも僕は、こういうの、つまり限りなく本物に近い姉という存在を求めている男性は数多くいると思うんです。世の中には、姉好きは意外と多いんです。好きな花はアネモネで、風邪をひいたらアネトンシロップを飲み、日用品の買い物は東急ハンズアネックス。毎日の日課としてアネモメーターを観測し、所蔵するアネロイド関係品の調整を怠らない。信長の野望ではいつも姉小路家を選択し、好きな原画家はカーネリアン。作家だったらアーネスト・ヘミングウェイ。旅行に行きたくなったら道の駅雫石あねっこまで行き、いつかは亜熱帯地方に海外旅行したいと思っている。、彼らはいつも、心の中で姉を求めています。だがそれは現実にはかなわない。例え姉が欲しくとも、それを手に入れることは現実的に不可能だった。これまでは。だけど今、その状況が変えられるかもしれないんです。弟として姉に尽くし服従し反抗し狼藉し制裁され、そしてともに家族として笑いあう。そんな願望を持った心優しき男達の、僕は先駆者になりたいんです!」
大きく息を吸う。一気に言い切って、少し酸素が欲しかった。そして心を落ち着かせて二人を見ると、まさにぽかんとした表情でこちらを見ている。
・・・もしかして、はずしてしまっただろうか?
そして数秒経って後、ようやく奥倉さんが反応を返してくれた。
「あは、あははは・・・。英哉君、君、君おもしろいよ。」
「僕は真面目に言ってるんです。」
「いや、わかってる。だから余計、ね。」
変なスイッチでも入ってしまったのか、奥倉さんの笑いは加速している。僕は少しむっとした。下田さんはといえば、何となく僕と目を合わせないような雰囲気で目を泳がせながら返答を探しているように見えた。下田さんにそういう態度を取られることで、僕の中にはなんだか恥ずかしさがこみ上げてきてしまった。
「ま、わ、わかったから。今日のところはとりあえず、この話は置いとこう。ね?ね?」
何がわかったのかこっちには全然わからないが、奥倉さんがそうしないと笑いが止まらないというので仕方なく、僕の「姉に対する思い」論は棚上げされることになってしまった。
それからは、もう姉とか何とかそういうのはほんとにどうでも良くなるような、ぐだぐだで他愛のない意味不明な飲み会が朝まで続いたのだった。奥倉さんはアルコールが入ると性格がさらに加速するらしく、だんだんとその振る舞いが傍若無人化していった。僕は下田さんにそれを止めて欲しいと願ったが、彼女は彼女で飲むとだんまりになるらしく、あまり口数が多くなくなっていった。そして時々、甘えたような声で「もー寝ていい?」とか言い出すようになった。
「だーめー。征子まだ寝ちゃ駄目ー。」
「うーん。だって眠いもうん」
彼女のその仕草がなんだかかわいくて僕は少しどきどきしてしまった。動画でも撮っておこうかと思ったが、酔いが覚めた後でそれが知られたとき、却って関係が悪化することが予想されたので、やめておいた。
そして奥倉さんへの下田さんの反応がだんだん鈍くなってくると、当然今度はその標的が僕に移ってくる。
「奥倉有香、これより独身男性の部屋を探検するであります!」
「いや、探検しなくていいから。」
「まず基本は冷蔵庫よね。」
「そこが基本なんですか? ベッドの下とかじゃなく。」
「ベッドだって!? いーやらしー。」
「なんでそうなるんですかっ!」
「織池英哉君は、女の子に自分のベッドを見せたがる変態君なのでありましたっ!」
「そんなばっかで変態呼ばわりされたくないし、だいたい見せようとなんてしてませんよっ!」
「じゃあ、ベッドと冷蔵庫どっちを見せたいのよ。」
「どっちも見せたくありません。て言うか今気づいたけど、あんたこの間僕のベッド勝手に使ったじゃないですか。」
「勝手じゃないよー。ちゃんと許可取ったつもりだもん。」
「・・・まあ、確かに駄目とは言いませんでしたけど。」
「だよねー。はい、英哉君の負けー。」
「・・・。」
「ということでベッドは既に調査済みなので、私はこれから冷蔵庫の調査に移りたいと思います。」
「いや、だから調査しなくていいから。」
「負け組英哉君に拒否権無しっ! さあ冷蔵庫はどこ? って普通台所よね。これでお風呂場とかに置いてたら流石にちょっと引くわ。」
「僕だってそれは引きますよ。」
「じゃあ台所に移動!」
「って、何で僕引っ張られてるんですか? 僕も一緒に来いってことですか?」
「居住人の立ち会い無しに臨検を行うほど私は違法性の高い女ではないのだよエジソン君。」
「エジソンじゃなくて英哉です。」
あんたの存在自体がきわめて違法性が高い、という言葉はとりあえず飲み込んでおく。
「ほう、これが冷蔵庫ですか。文明の利器ですなあ。」
「あんたはいつの時代の人ですか。」
「自分で料理するだけあって、やはりそれなりの物を持ってますねえ。どれ、では中を拝見。・・・おや、特に抵抗しないのですかな?」
「・・・見られて困るようなもん、そこには入ってませんから。」
冷蔵庫の中に見られて困るような物を入れていたら、それは人としてかなり問題があると思う。
「つまんないのー。」
といいつつも、奥倉さんは冷蔵庫を開けることをやめようとはしなかった。
「ほほう、納豆がありますな。健康的だねえ。お、大根もある。英哉君、君はこの納豆と大根を使って、いったい何をするつもりだったのかね?」
「そういう食べ方もあるでしょうけど、別に特にその二つを組み合わせて食べる予定はありません。」
「食べる以外の何かをするということね! 何をするつもりよ! やっぱりえっちなこと!?」
「どこがどうなってそういう発想に至るんですかっ!?」
「だって大根だし。」
「何で大根だとえっちなことに至るのか全く意味がわかりません。」
「わかんないの? しょうがないなあ〜。」
そういうと奥倉さんは冷蔵庫の中から1本丸ごとの大根を取りだし、それを片手に持って持ち上げ、何かの変身シーンのようなポーズを取った。
「大根ムーン。」
「・・・。」
全く意味がわからない。
「いや〜ん、ありえないっ!」
そう言いながら彼女は、手に持った大根で僕の頭をぼかぼか殴ってきた。
「あんたがありえないよっ!」
僕は思わず叫んでいた。
その間、下田さんは隣で起きている異常事態を知ることもなく、ただ平和に気持ちよさそうに眠っていたのだった。こんなところもある人なんだな、と改めて彼女に対する認識を深めることが出来た。
「魔法少女ヘリカルありか。核融合ビームで悪い人を更正させちゃうの。ね、こういうの好きでしょ、好きでしょ?」
奥倉さんに対する認識も深めることが出来た。
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