荒野草途伸ルート >> 荒野草途伸独自小説 >>紫春>>1話
 彼女は、事ある毎に昔の話をしてくれた。
 
 
 
 開かない眼の中で、彼女の瞳はうずいていた。不快感を紛らわすように昔のことを思い出していた。記憶の中にある、最も古い思い出。幼稚園。小学校に入り、男の子とはよく言い争った。中学校。高校。大学には入れなくて、結局短大に進んだ。そして就職。そのうち結婚してやめることになるのだろうと、当たり前のようにそう思っていた。でもそれは、現実には起きなかった。あっという間に30になり、そして40になった。このころにはもう、夢も希望も既になかった。唯一、自分に与えられた仕事をこなすことだけが楽しみになっていた。50になろうというころ、退職を求められた。彼女はごねた。同期の男性社員と比べても仕事熱心で会社に忠実であった彼女の、それは初めての反抗であった。だがそれすらも、通ることはなかった。彼女は少しだけ色の付けられた退職金を受け取り、30年勤めた会社を去った。
 そんなことが、走馬燈のように彼女の頭の中を駆けめぐっていく。そう、死ぬ前に人は、こんな光景を見るという。それはあくまで噂だ、死者は何も語り得ないのだから。だがそのとき彼女は確かにそれを、死の予兆と受け取った。だがそれは、ただ終わるためだけに起きるものではない。
 死、そして再生。この閉じられた瞼が再び開くとき、彼女は新しい人間として生まれ変わる。そう予定づけられたものであったのだ。
 
 繭の外――そう、彼女の今いる場所は、関係者から“繭”と呼ばれていた――では、小さな警告音が、赤い発光ダイオードの光とともに周期的に響いていた。音と光は、繭に繋がれた制御コンピュータシステム・MYU(Memorize Youth Unit)から発せられていた。MYUは繭が行うべき処理を全て記録し、制御し、監視する。いわば繭の半身であった。だが、そのMYUの役割もひとまずは終わる。繭の中で一月かけて行われるべきプロセスは、全て終了したためだ。
 一ヶ月。そう、一ヶ月もこの中にいたはずなのだ。繭の中の彼女――愛瀬雪江は、そう思った。初めにこの治験のことを知ってからは、7ヶ月。長い長い、うんざりするような事前説明と手続きを経て、この繭の中に入るまでの半年間。それに比べたら、なんとあっという間だっただろう。それまで歩んできた50年余の人生をリセットするには、なんとあっけないものだっただろう。
 
 外から足音が聞こえる。数人。暫くして、瞼を透かしてわずかな光が感じ取れるようになった。誰かの手が雪江の頭をまさぐっている。瞼に貼られた絆創膏がはがされ、雪江はようやく目を開けることが出来た。1,2,3人。顔上には3人の顔が見える。
「愛瀬さん、おつかれさまです。お加減はどうですか?」
 その中の一人の女が問いかけてくる。雪江は暫し、記憶の取り出しに戸惑った。そしてそれが、今回の自分の主治医であることに思い当たった。
「ええ、大丈夫です。少し退屈していたくらいですね。」
 そう言って雪江は微笑みかけた。それはごく自然に出たものであり、30年間会社勤めをした雪江に自然に備わっている仕草であった。それに気づいた雪江は、自分の記憶は確かに残っているのだ、と実感した。消えることはない、とあらかじめ説明を受けてはいたが、しかし全身の細胞を入れ替えるというからには記憶もいくらか消えてしまうのでは、と疑いを持っていたのだった。
「先生のいったとおりですね。」
「ええ、何が?」
 医師――穂積嘉名という――はまるで親しい友達であるかのような答え方をした。実際彼女たちは、この数ヶ月間でそう言っても差し支えのない間柄になっていた。嘉名は雪江よりも4つ年下である。4歳という年の差は、10代の頃には途方もなく大きな壁として感じてしまうものだが、雪江や嘉名ほどの年齢になると、それはもはや、さしたる差ではなくなってくる。雪江は歳の近い嘉名に親しみと信頼を覚え、嘉名もまた気兼ねなく雪江に接するのであった。
「記憶が消えることはない、って。手術前の説明でそういってたとおりだな、って。」
「ええ。それは何度も説明したわね。消えていないでしょう?」
「本当に。でも、なんだかそれがとっても不思議だわ。」
 無論彼女は、それについて十分すぎるほどの説明を受けている。彼女の受けた処置は主に皮膚を初めとする体の表面の細胞に対して行われるものであり、臓器や脳細胞に直接影響を及ぼすものではない。そのようなことが理論的背景も含めて説明がなされている。だが、元々医学の専門教育を受けたわけではない雪江にとっては、それは表面上では納得できてもいざ現実になってみると驚きの要因になることが免れない、そういうレベルのものであった。
「体そのものは新しくなっているから、それに対して脳が違和感を感じてしまっているのかもしれないわね。――鏡で自分の姿を見てみる?」
 雪江が頷くと、傍らにいた看護師の一人が部屋の隅まで行き、鏡を持って戻ってきた。看護師から鏡を受け取った嘉名は、それを立てるようにして雪江の前に持ってきた。雪江からは、鏡に映った自分の顔が見えた。
 
 そこには一人の少女の姿があった。もう写真でしか見ることが出来ないと思っていた、二十歳前後の愛瀬雪江の姿が。
1.
 
 半年あまり後。雪江はある大学の教室にいた。外は春。強めの風が枝を揺らしているのがわかる。誰もいない教室の窓辺で、雪江は一人その光景を眺めていた。
 
 “繭”を出てから数週間、雪江は経過を見るという目的でそのままセンターの入院病棟の中にいた。「体そのものの若返り」という、これまで人類が求めてやまなかったにもかかわらず実現されることの無かった技術。雪江が初めてというわけではなかったが、しかし前例に乏しいことには変わりはなく、雪江の経過観察とリハビリは特に慎重に行われた。
 だがそれ故に、雪江はむしろ退屈さを感じていた。体細胞が蘇り、活発に動けるようになった分、逆にそれをもてあます結果となってしまっていた。そう、若い頃はとてもよく動き回っていた、精神的に子供だった分こんな風にじっとしていることなど出来なかっただろう、雪江は30余年前のことを思い返しながら、ベッドの上でため息をつくのであった。
 ある日、ケアを兼ねて雪江と話し込んでいた嘉名が、こんなことを言った。
「この後退院してから、どうするつもりですか?」
「そうですね。特にまだ何も決めてないんです。」
「そう。なら。」
 嘉名は、パンフレットのようなものを取り出し、雪江に差し出した。大学案内と書かれたものと、2028年度中途入学者募集要項と書かれたものの、二つ。どちらも、雪江が治療を受けて今いる、M大のものだった。
「中途入学・・・。」
「そう。参考に、と思って持ってきたんだけど。」
 嘉名はパンフレットを雪江に手渡してから、続けた。
「あなたが受けた治療、幹細胞化誘導療法。これについては処置前にも、規定通りの最低限の説明はしてきたけど。私としては、クライアントにはもっと多く、詳しく知ってもらいたいと思ってるの。そしてあなた自身も、きっと知りたいと思っているのではないかしら。」
「そうですね。やっぱり、自分の受けた治療の事は知っておきたいし。」
「でも、医学や生物学の基礎知識が無い人に一ヶ月や二ヶ月かけて説明したところで、全部理解できるはずもないし、それすらも私がそれだけの時間を取るなんて出来ないわ。でも、あなたにはこれから、多くの時間がある。だったらいっそ、学校で基礎から学んでみてはどうかと思ったの。」
「ああ、そういうことですか。」
 大学、か。雪江は小さな声でそう呟いた。40年近く前、まだ10代だった頃のことを思い出す。女子の大学進学の道は無論開かれていたが、しかし半分近くが短期大学に進む道を選んでいた時代。自分もまた、何の疑いもなく、そして大学受験は大変そうだという理由から、比較的入りやすそうな短大を選んで決めた時のことを。
「でも私、あまり頭良くないんですけど。」
「そんな事言うものじゃないわ。」
「でも実際、成績良くなかったんですけど。勉強もしなかったし。」
「それは昔の話でしょう。それに、勉強しなきゃ成績悪いのは当たり前よ。」
 嘉名もそこで、昔を思い出すかのように遠い目をして、言った。
「それなのにあの頃は、そういうことをしたくなくてたまらなくて。」
「・・・?」
「私も4浪してるんですよ。高校の同級生が卒業した後にやっと、大学入って。」
「ああ。でも先生は、医学部だから。そういう人多いんでしょう?」
「確かにね。でも私は違うのよ。あたしそのころバンドやってて。受験中も勉強もそっちのけでそっちばっかり力入れてて。」
「それならむしろ、よくそれで入れましたね。」
「本当にね。」
 嘉名は天井を見上げながら、言葉を続けた。
「医者になりたい、研究医になりたいって目標は確かにあった。でも自分の実力で本当にそれが出来るのか、自信がなかった。努力が実らないんじゃないかって不安があった。バンド確かに好きだったってのは大きいけど、でも当時の私にとっては、それはちょうどいい言い訳でもあったのよ。」
「・・・・。」
「4年経って自分を振り返って、ああこれではダメだって思って。で、その後の1年を必死でがんばって、何とか今の道に軌道修正できたんだけど。」
「先生は、そういうことが出来る人なんですね。」
「違うわ。4年も経たなきゃそういうことが出来ない人間なのよ。」
 暫し、沈黙が空いた。
「でも。だったら――。」
 雪江が口を開く。
「今もし、当時に戻ったとしたら?」
「そうね。もしかしたら、そんな回り道をせずに済ますことが出来るかもしれない。でも――また、同じ事を繰り返してしまうのかもしれない。」
 嘉名は、雪江と視線を合わせて言った。
「歳を取ると、確かに若さは羨望の対象になる。けれど、それを取り戻したからと言って、人生がやり直せるとは限らない。また同じ事を、いいえむしろ前以上に、時間を無駄に使ってしまう可能性すらあるの。」
「確かに、その通りですね。」
「後ろ向きな考え方だけど、そう考えて昔の姿に戻ることをためらう人もいる。だからね。それでも敢えて戻る道を選んだあなたは、とても勇気があって前向きな人だと私は思うの。」
「そんな。そうなるのかしら。」
「だから、頭が悪いとかそんな悲観的に考えることはないと思うの。もちろんよく考えた方がいいとは思うけど。大丈夫、あなた並の意欲があれば、大学の授業について行けないはずはないから――。」
「――確かに授業にはついて行けているけど。」
 雪江は窓の外にそよぐ緑を見ながら、そう呟いた。早朝――と言っても8時過ぎ、その大学で1限目の始まる約30分前。ただでさえ学生の集まらない1限授業の、それが始まるよりかなり前。よほど意欲に溢れた、どちらかというと奇特な学生でない限り、そんな時間に来ることはない。
 この二ヶ月で雪江は、ようやくそれを悟り始めていた。そして、編入学した自分が学科の中で浮いた存在であることも。
 
 通常、大学に入るには高校教育課程を前提にした入学試験を受ける必要がある。が、一部には大学の教養課程修了者や短大・高等専門学校の卒業者を対象に編入学試験を行っているところもある。雪江は短大を卒業しているのでその受験資格があった。また、一般入試と違って専門科目のみの出題とするところが多く、試験勉強の負担が軽いという部分もあった。だから嘉名は、その編入学――この大学では中途入学と言っていた――の募集要項を雪江に渡したのだった。
 雪江はそれに従い、このM大の2年次編入試験を受けた。そしてそれに見事合格し、4月から応用自然学科の2年生として通学しているのであった。
 だが。2年生として編入した雪江には、予想外の壁が立ちはだかっていた。それは、学力面というよりも人間関係の方の問題であった。殆ど全ての人間が互いに見ず知らずである新入学時であればいざ知らず、そこから1年も経ってしまうともう、ある程度のグループ形成が完成してしまっている。
 大学生ともなれば、違うグループの人間とは関わらないといった子供じみた真似はさすがにない。ある程度の、ごく普通の会話はある。が、それ故に逆に、話の中に深く入っていくことは困難なのである。単なる好き嫌いではなく、学力や生活スタイル、個人的利害といったものがグループを形成する要因になっているからだ。入れてくれといえば、断られることはないだろう。だがそれがお互いのためになるとは必ずしも限らない。
 そのあたりの事情は、既に50余年もの歳を重ねている雪江には容易に理解できた。仕方のないことだ。こればかりは多少時間をかけて、見極めていくしかない。中途で組織に入った、外様の宿命だ。とはいえ、雪江はやはり物寂しさを感じてもいた。仕事ではなく、ここは仮にも学校なのだ。もう少し楽しい学園生活というものを、自分にも経験させてくれても良いではないか。
 
 ふう、と雪江はため息をついた。
 雪江が座っているのは最前列。少し顔を上げれば、教室の前方左上にかかっている時計が見える。その時刻は、8時8分を指していた。まだ、他のみんなが来るには早い時間。こんな誰もいない早い時間にやってきて、自分はいったい何をやっているのだろう。誰よりも早く来ることで、目立とうとしているのだろうか。それとも時間ぎりぎりにしかやってこない学生達への、当てつけだろうか。どっちも情けない話だ。いい歳をして。
 いい歳。それがいけないのだろうか。大学2年生といえば、19か20か。ここは多少浪人して入った人が多いようだけど、それでもまさに親子ほどの差があることになる。自分には子供はいないけれど。そんな年の差があれば、やはり一線を引いてしまうのは当然ではないか。
 だが。と雪江は思う。みんな、それに気づいているのだろうか? 確かに学籍簿には自分の正しい年齢は載っているはずだけど、何かを疑うかストーカーでもない限り、事務室に忍び込んでそんなものを調べようとはしないはずだ。そして自分のこの外見は、ここにいる学生達と何ら変わりない年齢に見えるはずなのだ。
 では自分は、周りの学生達からどう見られているのだろう。
 
 教室後方の扉が開く。雪江が振り向くとそこから、いかにも安物の、ある意味学生風のズボンをはいた足がそこから伸びてくる。そしてその足に導かれて、胴と頭も姿を現す。髪の黒い男の子。だれだっけ、雪江は一瞬目を閉じて、覚えたてのクラスメンバーリストを検索する。多賀川三閏。さんぞーと読む。どうしてこんな読ませ方をするのかわからないが、おかげで割とすぐ覚えた。そんなことが雪江の頭を駆けめぐる。
 そのさんぞーが、右腕を高々と挙げて指一本立てながら、叫んでいる。
「いっち、ばーん!」
 何が一番なのか、雪江はとっさに理解できなかった。何を言ってるのこの人、とつい口に出しそうになった。そして、ああもしかして教室に来たのが一番だと思っているのだろうか、と気づいた。そう、彼はまだ、雪江の存在に気づいていなかった。雪江は迷った。そのことを今、彼に指摘すべきかどうか。どうせすぐに気づくはずだし、わざわざ指摘したりすれば、彼に恥をかかせることになるかもしれない。でも、逆にそうすることで生まれるコミュニケーションもあるはずだ。
 一瞬迷った末、雪江は三閏に話しかけた。
「ごめんなさい、今日の一番は私なの。」
 三閏は指を立てたまま、首を回して雪江の方を向いた。きりきりとからくり人形のようで、雪江は笑いそうになった。そして彼は言った。
「なんですとっ。」
「だから。今日の一番は私。」
「何を根拠に・・・。」
「いや・・・根拠と言われても。」
 今ここに自分がいるのが何よりの証拠ではないか。おかしな事を言う人だ。雪江はそう思った。
「ああ、申し訳ありません。少々話が飛躍してしまいました。その、教室一番乗りの事を言っている根拠は何かと言うことをお訊きしたかっただけなのですが。」
 敬語口調。この人と雪江とは初めて話すわけでもなく、その時は確かに丁寧な口調の人だなと雪江は思った。が、しかしこのような敬語は使わなかった。動揺しているのか、と雪江は判断した。
「いえね、根拠というようなものはないけど・・・その、勘、そう、勘よ。」
「はあ、勘ですか。すごいですね。はは。」
 そう言いながら彼は、教室中程の、廊下側、雪江とは反対側の列の席に進んでいく。
「ちょっと待って。」
 そんな彼を、雪江は呼び止めた。三閏を動揺させたことで多少優位を取ったという意識が働いたのかもしれないし、今この場にいるのが雪江と三閏の二人だけであるということもあったかもしれない。
「どうしてそんな方行くの?」
「え? で、でも僕、いつもこの席ですから。」
「別に指定席制じゃないでしょ。今日はこっち来ない?」
「ええっ?!」
 どぎまぎするように、三閏は辺りを見回している。動揺にさらに拍車をかけてしまったようだ。だが雪江は、その時点ではその理由に気づいてはいなかった。
「少し訊きたいことがあるのよ。」
「ああ、そうなんですか。では遠慮無く。」
 最初からこっち来たかったんかい、と雪江はツッコミを入れたくなった。だが、また動揺させるといけないと考え、思いとどまった。代わりに、質問をした。
「私、どう見えるかな?」
 訊きたいこと、と言っても実は特に具体的に考えていたわけではなかった。だから咄嗟に、彼女が直前まで考えたことが、その口から出た。言ってから彼女はしまったと思ったが、しかし取り消すのももっと変かと思い、そのまま続けた。
「どう?」
「どうって・・・。」
 その彼にとっては唐突すぎる質問に、三閏は暫し口ごもった。
「朝ご飯はちゃんと食べてきたように見えますね。」
「そういうことを訊いてるんじゃなく。と言うかあなた、見ただけでそんなことが判断できるの?」
「あ、いや、その・・・・。勘です、勘。」
「私は、勘じゃなくて見た目がどうなのか訊いてるんだけど。」
「見た目はその・・・えっと、かわいいです。」
「かわ・・・。」
 それは、雪江にとっては予想外の言葉であった。歳のこととか、服装が浮いてるんじゃないかとか、そんなことばかりが彼女の頭にはあった。どちらかというとマイナスのイメージの。雪江が期待していたのは、そんなマイナスなイメージを否定する、ただそれだけの言葉であった。だからその返答は、今度は彼女を幾ばくか動揺させる結果になった。
「(この歳になってそんなこと言われるとは思わなかった・・・・。)」
 雪江は三閏から目を逸らし、右手で髪をかき分けながらそう思った。どくん、と心臓が高鳴る。そう、今の自分は30年前の自分と同じ姿。ちょうど今、この目の前にいる青年と変わらない歳に見えるはずなのだ。だからと言って、そう言われる保証があるほどのものでもないと、自分でも思っているけど。ああそうか。彼は、そんなに深い意味でそう言ったのではないだろう。そう、きっと、自分と同年代だと思ったからこそ。その世代の他の女の子にも言うように、遠慮も臆面もなく、ごく普通にそんなことを言えたに違いない。
 そんなことを考え、雪江は一瞬高まった気持ちを抑えていった。勿論、口には出さない。そして、返答待ちの状態になっている三閏もまた、何も言わない。沈黙が教室を支配していた。壁に掛けられた時計の、その音が聞こえるぐらいになってようやく、二人はその状態に気づいた。
「あ、ごめんなさい・・・。ああ、ちょっと動揺しちゃった。」
「すみません、僕もです。」
 何であんたまで動揺するんだよ、と言うツッコミを、雪江はぐっと飲み込んだ。
 時計の針は、8時24分を指していた。廊下の向こうから足音が聞こえ、やがて幾人かの学生が教室に入ってきた。そうか、ようやく他の学生が来る時間になったか、と雪江は思った。この講義を受けている学生達が、次々と入ってきた。その中の二人が、教室に入ってきて、何か言っていた。
「おはよう。」
「さんぞー、ちゃんと来てるかー? って、いないね。」
 部屋を見渡すように声をかける二人。廊下側の席、前列から最後部。窓側後部を見て、そして三閏と雪江がいる場所に視線が向く。
「お、いたいた。なんだ、何でいつもの場所にいないんだ? ・・・あ。」
「あれぇ、愛瀬さんとお話ししてたの? 珍しいねー。」
「あ、う、うん。そうなんだ。」
「ええと、・・・。」
 雪江は、目の前の二人が誰であったか、思い出そうとする。この人達も同じ学科だ。三閏くんと仲が良かった気がする。そう、岩竿直貫と坂間理香だ。
「岩竿ナホヌです。」
 雪江の思考を見透かしたかのように、直貫が自らの名を名乗った。
「ああ、どうも。あれ、ナオヌキ、じゃなくて、ナオヌ、なんだ。」
「ええ。みんなまず気づかないので、印象深い自己紹介をする上では有効です。」
「はは。確かにそうね。」
「でも。愛瀬さんも、割と珍しい姓なのではないですか? 他に例がないという程でもないですが。」
 気を遣っているのか、そういう地なのか。よくわからないが、直貫は妙に丁寧な口調で雪江に語りかけていた。
「同じ字でもいろいろ読ませるみたいだから。『まなせ』は確かにあんまり多くないみたい。」
「うんうん。」
 直貫が、しきりに頷いている。
「あたし達ね。いつもつるんでる5人、ここにいる3人が含まれるんだけど、みんな『変な名前』ってのがそもそものきっかけだったのよ?」
「さんぞー、ろっく、なおぬ。うん、確かにこの組み合わせは普通じゃない。」
 三閏が確認するようにメンバーの名を挙げ、うんうんと納得している。ろっくというのは雪江にはまだ誰のことかわからないが、彼らのツレのうちの一人には違いない。
「今更納得するような事じゃないんだけどなあ。」
 理香は納得し続ける三閏を見ながら苦笑していた。
「ところで三閏。ちゃんと教室入るとき、一番って言ったか?」
 本来の話を思い出した、とでも言うように、直貫は話題を変えてきた。
「う、うん。もちろんだよ。」
「おお。ちゃんと出来たんだ。えらいえらい、褒めてあげよう。」
 そう言いながら理香は、三閏の頭をなでなでし出した。
「や、やめてよ。そんな褒められるような事じゃないし。それに実際には、一番じゃなかったんだから。」
「え?」
「その、愛瀬さんが既にいたから。」
「・・・ああ、そういうことか。」
 直貫は、全ての事情を飲み込んだとでもいうように、大きく頷いた。そして、いまだに事情を把握しかねている雪江に向かって、語りかけた。
「びっくりしたでしょう。」
「え、ええ。」
「あれね。特に深い意味はないですから。夕べ酒飲んでて、『若気の至りというものをやってみよう』とかいう話になって、三閏が貧乏くじ引いただけという、それだけの話なんです。」
「ふーん。そういうことだったのね。」
「そういう損な役回りは、いつもさんぞーに回って来ちゃうのよね。かわいそうなさんぞー。」
「とか言いつつなにげに今回の主犯は坂間さんじゃないですか。」
「あら心外。あたしは、窮地に陥ったあなたを助けるつもりで、実行可能なことを提案しただけなんだけど?」
「だからそういう場合は、提案するんじゃなくて実行そのものを止めて欲しいんだけど。」
「だって。全部止めちゃったらおもしろくないしー。」
「それって楽しんでるって事じゃないか、何が助けるつもりだよ!」
「あははは。」
 雪江は、そんな会話を端から笑いながら聞いていた。そしてふと、小声で呟いた。
「若気の至り、か。」
「え?」
「あ、ううん。なんでもない。ねえ、そろそろ授業始まるみたい。」
 そう言った雪江の目線には、この講義を担当する教官がいた。
「おお、そうか。じゃあ俺たちは、いつもの場所に移動するとして。」
「と言うか、もうそこしか空き無いしね。・・・あ、さんぞーはどうする?」
 二人がけの席が左右とも空いているのはもう、彼らが言うところのいつもの席1列のみであり、その前後にはもう空きがなかった。もしそこで三閏が移動するにしても、誰かが既に座っているところの隣に、わざわざ移動する形になる。それはそれで確かに不自然だと、雪江は思った。
「えっと。僕は、・・・今日はここに座っているよ。」
 そう言いながら三閏は、ちらりと雪江の方を見た。理香と直貫が席に着くのを見届けてから、雪江は三閏に声をかけた。
「じゃ。今日・・・と言うかこの時間だけだけど、よろしくね。」
「あ。あ、あの、よろしくお願いします。」
 そう言って頭を下げる三閏。その仕草には少し照れた様子が含まれていて、雪江は思わず笑みを返さずにはいられなかった。そして、予兆を感じた。昨日までとは、何かが変わる。何か新しいことがこれから起きるという、予感が。動き出す。あの時戻ったまま、ただ戻っただけで止まっていた時間は、今この瞬間からようやく進み始めたのだと。
 
 
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