荒野草途伸ルート >> 荒野草途伸独自小説 >>紫春>>2話
2.
 
 ・・・ES細胞:胚性幹細胞。あらゆる機能を持った細胞に分化する能力を持つ。受精卵はES細胞。NTES細胞:体細胞由来のES細胞。受精卵の核を入れ替えて作るのではなく、既に成長した細胞をリセットして作る。倫理上の問題が少ない。酵素:細胞内の特定の遺伝子を発現させるために必要。通常細胞をNTES細胞にする時、また、ES細胞から特定の器官を作りたいときにも用いる。遺伝子解析:・・・
「ふうっ。」
 部屋の中で雪江は大きなため息をついた。他に何かをする当てもなく、雪江は今日の講義ノートを見返していた。午後19時50分。やることは人それぞれだが、真っ当な学生ならば、まさに絶好調で遊び回っている時間。無為で無駄で、しかし活気に溢れた謳歌という言葉が相応しい時間の過ごし方。多くの人にとって、二度とはない青春時代。
 そう、でも自分は二度目だから。そう雪江は言い訳してみる。それに学生の本分は勉強だから。むしろこうして予習復習をしている姿、こちらの方が合っているのだと。だがどんなにうそぶいてみても、実際のところそれをやる学生などごく少数であると言うこともまた、彼女は知っていた。そう考えると、自分がいかに無理して背伸びして“学生”しているかということを思い知らされたかのような気分になり、雪江は気分が滅入るのであった。
 大学近くに借り直した、1LDKの3F部屋。窓の外から学生の一団とおぼしき賑やかな声が聞こえる。雪江は、いつになくそれがうらやましいと感じた。
 それでも。つい一月前よりはずいぶん状況は良くなった。良くなったものだと、彼女は思った。大学に入り直して初めて、友人と呼べる友人が出来た。あの日、偶然にも“若気の至り”から雪江と出会うことになった多賀川三閏。そしてその友人達。理香と直貫、他にも二人仲間がいる。計5人、プラスプラス。その輪の中に雪江が組みこまれ、6人になっていた。
 彼らは今、いったい何をやっているのだろう。雪江はふとそう思った。正直な話彼らは、いわゆる世間の若者達のイメージからは、少しずれている。無論それは雪江がそれまで自分の中で勝手に抱いていた、ネットや雑誌、そして噂話と言った情報源を元に作り上げていたイメージに過ぎないのだが。ただ、彼ら以外の学生、たとえば同じ学科の他の人たちと比べても、彼らの存在はやはり異彩を放っている、と雪江には思えた。自分が二十歳の頃ならば、敢えて近づこうとは思わなかったくらいの。
 そんな彼らだからこそ。こんな夜には、何か特殊なことをしているのではないか。そう思えて仕方がなかった。もちろんそれが何かはわからない。自分みたいな人間が関わるべきではないことをやっているかもしれない。それでも。その時の雪江の中では、自分もその中にいれたらいいのにという思いが勝っていた。
 
 窓を見る。閉じたカーテンの向こうには夜がある。外からは相変わらずの声。やがてそれが、きりきりという妙な音に変わった。
「なんだろう。」
 雪江は立ち上がり、窓に歩み寄って外が見える程度にカーテンを開けた。きりきりという音はまだ続いている。それは意外と近いところから出ているようだ。目を凝らすと、ベランダの柵の向こうに何かロープのようなものが見える。上から下に。動いているようにも見える。
 やがて下から、そのロープの端が姿を見せる。端には人、人間の男がぶら下がっていた。きりきりという音とともに、男はゆっくりと上昇してくる。何の意味があるのか、右手を顔の高さまで上げている。部屋からの明かりで、男の顔が見えるようになった。多賀川三閏だった。
「あ。こんばんは。」
 そう言って三閏は、部屋の中にいる雪江に向かって頭を下げる。その反動か、三閏の体は後ろ、建物の外側に向かって振れた。そして戻ってきた勢いで、ベランダの内側にまで入り込んでいる。そのままロープをはずして降りるのか、と雪江は思った。だが三閏はそうしなかった。内側に入ったこと自体が予想外だったかのような、そんな表情をしていた。そしてその間にも、きりきりという音は続いていた。ロープとともに三閏の体は上に引き上げられ、再びベランダの外側に出る前に、天井に達した。
 雪江は思わず目を閉じた。それでも、ごっ、と言う音が聞こえた為に、何が起きたか結果はわかってしまった。そっと目を開けると、頭を抱えたまま振り子のように揺れる三閏の姿が視野に入ってくる。上にいる誰かが引き上げるのを止めたのか、上昇は既に止まっていた。雪江は扉を開け、ベランダに飛び出して、三閏を降ろそうとした。背が足りなくて、飛びついて三閏の肩にしがみつく。
「あっ。」
 三閏の口から、色っぽい吐息のような声が漏れる。雪江は欄干に足をかけて体重を預け、三閏の背中にかけれられている金属製の留め具をはずした。ロープによる上からの支えが無くなり、三閏の全体重が一気に雪江にのしかかってきた。支えきれず、雪江は三閏もろともベランダの床に落ちた。
「ったあぁ〜。」
 雪江は腰を打った。老体だったらこのまま寝たきりになったかも、と思うほどの痛みであった。とにかく腰をさすりたかったが、それはすぐには出来なかった。上には、同時に落ちてきた三閏の体があった。何が起きたのがわかりかねている様子で。
 とにかく、とりあえずどいて欲しい。そう願い三閏を見つめる雪江。視線が合う。とくん、とくん。三閏の心臓の音が高なりだし、それは雪江にも伝わるほどだった。雪江はやれやれと思った。
「いや、勘違いしてくれても別にいいんだけど。今はその前に、まずどいてくれないかな。」
「あ。ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。」
 三閏は必死になって謝りながら、あたふたと雪江の体の上から退去した。雪江はようやく腰をさすることが出来た。
「腰を打ったんですか?」
「ん、そうね。やっちゃったみたい。」
「ごめんなさい、僕の所為で。立てますか?」
「どうかな。大丈夫だとは思うけど。」
 そう言いながら、雪江は立ち上がろうとした。ふと、その傍らから三閏がおずおずと手を差し出しているのがわかった。掴まれ、と言うには少し頼りなさげな感じで。だが状況から言って、それ以外の意図は見あたらなかった。
「ありがとう。」
 そう言って雪江は手に捕まり、そのまま立ち上がった。腰に少し痛みが走ったが、寝たきりになることはなさそうだった。
 どんどんどん。扉を叩く音が聞こえる。
「ん? 何、こんな時間に。」
「あ。きっと、あいつらです。」
「あいつら・・・? ああ。」
 雪江の脳裏に、いつも三閏とつるんでいる残りの4人が浮かんだ。
「あの、開けてもいいです・・・か?」
「うん、まあいいけど。何で急に?」
 そう言いながら、雪江は頭の中でこれまでのことを整理していた。おそらくは屋上に据え付けられた巻き上げ機を使って、3階のここまで上ってきた三閏。一人でやったとは思えない。それに、この前後にずっと、下の方から屋上に向かって何か話している人がいた気がする。そう、それはすなわち。
 扉が開き、残りの4人達が入ってくる。彼らは全員が部屋の中に入り終えると、一斉に頭を下げた。
「済みませんでしたっ。」
 大変に危険な行為をした彼らを怒鳴りつけてやろうかと思い始めていた雪江にとって、それは結果的に先制攻撃になった。
「あ、う、うんまあ、悪いことしたとわかってるなら。」
「ほんとうに、ごめんなさい。」
 4人と一緒に頭を下げていた三閏は、そう言った後横を向いて、隣にいた理香に言った。
「愛瀬さん、腰打った。」
「・・・あんたねえ、そういうことしれっと言うもんじゃないわよ。」
 そう言って理香は、雪江に歩み寄ってその腰にそっと手を当てた。
「腰、大丈夫?」
「う、うん。たぶん。」
「とりあえず座ってた方がいいわよ。うん、座ってて。」
 理香は雪江を座らせた。その間に直貫達が慌ただしく動き始めていた。
「腰痛めたときって、どうするんだっけ?」
「湿布。湿布を貼るのよ。」
「ああ、そうか。湿布ってどうやって作るんだ?」
「今から作るのかよ!」
 言葉のやりとり。ほんの数十分前までただ一人が住む静かな部屋だった場所は、若者達の喧噪が支配する空間へと変貌していた。そんな光景を見ながら雪江は、厄介な連中に関わってしまったものだと、一人ため息をつくのであった。
 そんな雪江を、三閏はただじっと見つめていた。
 坂間理香、岩竿直貫、関鹿駈、宮滝鯉子、多賀川三閏。部屋の中輪になって座っている面々、その氏名を雪江は頭の中で順にそらんじていた。三閏を屋上からロープで吊り上げてベランダから部屋に入らせる、そんな愚かな行為に対する事情聴取の場だったはずだが、もはや既に、そんなことはお流れになってしまっている雰囲気だった。
「若さとはエロさよね〜」
「うるさいっ。違う!」
 オカマ言葉でからかう鹿駈に対し、ムキになってそれを否定する三閏。そんな光景が繰り広げられている。ああ、何故こんな話になったのだろうと、雪江は少し話の流れを思い返してみる。そう、元々は事情聴取だった。この部屋に来る事になった理由だった。ふとしたことで三閏が雪江の名を口にした。それを追求するうちに、これから雪江の家まで行こうという話になり、ではついでに印象に残る出会いをそこで演出しようと鹿駈が言い出し、ロープで吊り上げてベランダから登場という案を鯉子が提案したのだった。直貫は一応止めたが、結局阻止できたのはBGMをかけることぐらいだった。
 おや。と、雪江はまた少し思考を戻す。何故自分の名を口に出したくらいで、三閏はそんな追求を受けたのだろう。そして印象に残る出会いとは。
 いまだムキになった状態の三閏をみる。普段の三閏を思い出す。彼はいつも、自分にどんな態度をとっているだろう。少なくともこんなギャァギャァ騒いでいることはない。もっと大人しく、しかし気がつくと自分の方を見ていたりする。恥ずかしそうに、何かをひた隠しにしているかのように。
 思い返して尚、それが何を意味するのかわからない雪江ではなかった。少女の頃ならいざ知らず、今ではそんな羨ましいほどの鈍感さはない。
「(そっか・・・。)」
 雪江は心の中で呟いた。
「(彼から見れば、私は同年代の女の子に見えるんだ。)」
 それ自体は、とっくに解っていたはずのことであったが。いざこういう形でその効果が判明すると、少々複雑な心境にもなるのだった。実際にはずいぶんと歳の離れた、たとえていうならば孫のような年齢の男の子から好意を寄せられる。しかし彼は、あくまで普通の若い女の子に対するように、普通の恋をしているに過ぎないのだ。
「はぁ・・・。」
 どうしたものかと思案に暮れるうちに、ため息が出る。その様子を見ていた理香が、横から話しかけてきた。
「どしたの? ため息なんかついて。」
「ん? あ、いや、なんでもない。」
「そお? その直前にはさんぞーの方を見ていらしたようですが?」
「ええ、まあ。」
「彼のことで何か? よろしければ無料相談に乗りますけど。」
 執拗に食らいついてくる理香。確かに、今の雪江は相談に乗ってほしい心境ではあった。が、そのためにはまず自分の身の上を話さなければならない。今、それを話してしまってよいものか。雪江にはまだ、事実を話すことへのためらいがあった。
「んんー?」
 あきらめる気配を見せない理香に対し、雪江ははぐらかすように別の質問をすることにした。
「いえね。彼、多賀川君。何歳なのかなって。」
「ん? 幾つかって? あー、・・・。鯉子、さんぞーいくつだっけ?」
「三閏君は一人だけだと思うよ。」
「そういう事を訊いてるんじゃなくて。」
「え? ああ、歳の話。誕生日来てないから、まだ二十歳だと思うよ。」
「ああ、そうか。9月だっけ?」
「それは関君。三閏君は12月。」
「・・・だ、そうです。」
 一通りの話を終えた理香が、再び話を雪江に振ってきた。
「ええっと、そうなんだ。」
「あ。今、計算が合わないとか思った? 二年生なのに二十歳とか。」
「え? ああ、そういえばそうね。」
「そうなの。実は彼、というかここにいる全員なんだけど、みんな浪人してこの大学に入ってきてるのよねー。」
「あ、そうなんだ。」
「ノーベル校でもないのに浪人とか、恥ずかしいとは思うけど。ま、事実だからしょうがないよね。」
「はは。そうね。」
「・・・で。愛瀬さんは、どうなのかな?」
「え?」
「愛瀬さん、中途入学でしょ。だとしたらたぶん、もう二十歳は超えてるんじゃないかなーってふんでるんだけど。どう?」
「え、ええ。二十歳は超えてますね。」
「ふーん。今いくつ?」
「えっと・・・。」
 戸惑い。別の話題を振って逃げたつもりが、結局自分の話として戻ってきてしまった。どうしよう。今ここで言うべきか。雪江の中で、大きな迷いが心を揺らしていた。
「ん?」
「・・・・。」
「理香。愛瀬さんには、何か事情がおありの様子だ。それを聞くのはまた今度にしたらどうだ?」
 今までずっと黙っていた直貫が、突如口を挟んできた。雪江にとっては、ありがたい助け船だった。
「あ、そ、そうね。じゃあまた今度聞かせてね。」
 理香はようやく引き下がった。
「ちなみに理香は一人だけ二浪していて、今ではもう22歳です。だから多少の歳の差は気にしないでいいですよ。」
「あー! なに、何でそんなばらし方するのよ。」
「宮滝は愛瀬さんに気を遣っているんだ。それくらい察したらどうだ。」
「察してるわよ! ただ、言い方ってもんが・・・」
 言い合いを始めた3人。その傍らで、雪江は苦笑しながら、心の中で思っていた。
「(多少、ってレベルじゃないんだけどな)」
 ふと、三閏の方を見てみる。三閏は三閏で、まだムキになって鹿駈と言い合いをしていた。彼にはまだ、自分の心境を察するだけの余裕はなさそうだ。雪江はそう思わざるを得なかった。
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