荒野草途伸ルート >> 荒野草途伸独自小説 >>紫春>>3話
3.
 
「鹿駈って名前、鹿が野山を駈けるって意味でつけられたんだけどさ。これとは別に、音楽のロックの方も掛けてあるらしいんだよね。」
 5人の中に雪江が入って6人になり、約1ヶ月が過ぎた。夏期休暇を前に若者達は浮き足立ち、その前に試験があるということすら無視しかねないほどの勢いである。雪江と一緒にいる彼らもまた同様であった。普段から騒がしく時にはた迷惑な彼らが、3倍の早さで動作しているかのようであった。
「ふーん。お父さん昔、ロックバンドでもやってたとか?」
「いや、そういうのは全然無い。カラオケでも昔のアニソンしか歌わない。」
「ロックじゃないのかよ。」
「じゃあ、なんで息子の名前にロックなんて・・・?」
「さあなあ。ちなみに職業は電気工事士だ。」
「いや、そんなことは訊いてないから。」
「すまん、夕べの酔いが抜けていないんだ。」
「お前、ちょっとは考えて飲めよ・・・。」
「というか二日酔い気味だったから、朝少し補充した。」
「するかよ普通・・・授業あんのにさあ。」
 そんな彼らの会話を、雪江は傍らで苦笑しながら聞いているのだった。ついていけない、というのが正直な彼女の心境であった。ただ、ついて行くことを強要されているわけでもなく、会話の進行に加われないときはこうして側で聞いているだけでよい。そして、理解できる内容になったらまた戻れば良いのだ。彼らはそれを、許容してくれる人たちだ。
「ところで、もうすぐ試験なんだけど。みんな対策とかいいの?」
 そのついて行けそうな話題を、三閏が提供してくれた。
「その言い方は逆に、君自身は対策をあまりできていないという趣旨にも取れるのだが?」
「え? そりゃあ、まあ。万全とは言い難いかな?」
「ふむなるほど。それで君は、それを万全にしたいからみんなで勉強会を開きたいと。」
「え? いや、別に開いてもいいんだけど。」
「時間帯は夜ね。夏の夜は気分が開放的になるから。」
「あの、何の話を。」
「集まるのは6人。でもその中で、三閏君の目当てはただ一人。」
「あの手この手で一人また一人と部屋の外に追い出し、残るはただ自分とその人のみ。」
「頃合いを見計らって三閏君はそっとささやくの、『今日の今この時を君のために用意したよ』って。」
「いやあの。」
 理香が、戸惑う三閏の耳元に口を寄せて呟く。
「ど・す・け・べ。」
「ちょ! 何を言ってるんだ、言いがかりだ!」
 三閏はムキになって怒り出した。そして雪江はまた苦笑に戻る。折角ついて行けそうな話になると思っていたのに。今自分が口を挟めば、明らかに墓穴を掘りそうだ。だから今はただ、側で笑っているしかない。
「まあ、三閏いじめはその辺にするとして。」
 この中では常識人である直貫が、話を戻そうとする。
「いじめじゃないわ。可愛がってるのよ!」
「どっちでもいい。」
「よくない。」
「あたしの三閏への愛を理解してもらえないなんて、心外だわ!」
「いいから話を聞け。」
 直貫はかなり強い調子で3人を制した。なるほど、この人たちにはこれくらいの強い態度で臨まないといけないのだな。雪江はそう思った。
「実際のところ、試験対策は大丈夫なのか?」
「実際のところ、普段からしっかりやっているので大丈夫です。」
「そうか。なら返す言葉はないな。」
 直貫はあっさり引き下がってしまった。雪江は今こそが発言のチャンスだと思った。
「でも私、勉強会とかちょっとやってみたい気もする。」
「あー・・・。」
「だそうだけど。どうしよう?」
「うーん。しかしねぇ・・・。」
 理香は、居並ぶ面々をぐるりと見渡してから、言葉を続けた。
「この面子だと、勉強会にならないことが明白なのよねぇ・・・。」
「うん、別の何かになりそうな気がする。」
「具体的には思い浮かばないけど、別の何かになるだろうな。」
「そ、そう。」
 雪江の提案は、あっさり却下されてしまった。かといって落ち込むというほどのものでもなかったが、理香は少しそれを気にしたようだった。
「ごめんね。こんな連中だし、それに取る授業も結構バラバラだから。だからあたしら、いつも試験前は単独行動取るんだ。」
「なにしろ濃い面々だからなあ。」
「あたしもこいだよー!」
「・・・。」
 沈黙が走る。鯉子は、きょろきょろとその場にいるものの顔を見渡していた。
「ね? ね? 私、またなんかはずれた事言っちゃった?」
「うん、思いっきりね。」
 ショックを受けている鯉子を横目に、理香が再び言い直した。
「まあ、いつもこんな感じで、うまくいった試しがないんだ。だから、ごめんね。」
「そ、そうなの。いえ、別に謝らなくてもいいわよ、気にするような事じゃないし。」
「ふうん。ならいいけど。」
 そう言った理香は、そこで何かを思いついたように、三閏に耳打ちをした。何を言っているのか、雪江の耳には届かなかった。
 授業が終わり雪江が教室を出たところで、三閏が走って追いついてきた。
「愛瀬さん。ちょっといいですか?」
「なあに?」
「あの、さっき言ってた勉強会のことですけど。」
「ん? 却下されたあれ?」
「はい。みんなで一緒に、というのは却下されちゃいましたけど。その。」
「?」
「あの、もしよかったら、僕と二人で。というのではどうでしょう。」
「ええ?」
「それだったら、別の何かになることはないと思いますし。」
「そうね。あなたならね。」
「はい、そうです。ですから、その・・・。」
「二人で、か・・・。」
 困ったな。それが雪江の、正直な感想だった。別に絶対に勉強会をやりたいというわけでもないし、それに三閏と二人だけでいる機会を作ってしまうことが、彼の中に何か誤解を生んでしまうような気がしてならなかった。かと言って、自分から言い出したことを無碍に断るのも気が引けた。それに、今三閏の目は、期待に充ち満ちてキラキラと輝いている。この瞳を失望の色に変えてしまうのか。それはとても罪深いことに思えた。
「どうしようかな・・・。」
「何か不都合でも? 今日でなくてもいいですよ。」
「んー。そういう訳じゃないんだけどね・・・。」
 立ち止まって考え込む雪江。二人の脇を、授業を終えた学生の一団が通り過ぎていく。外からはどこぞの演説好きが何か叫んでいるのが聞こえる。
 そして三閏が口を開く。
「あ。す、すみません。愛瀬さんにもいろいろ事情がおありなんですよね。ごめんなさい、気づかなくて。では、また。」
 そう言って走り去ろうとする。瞳の輝きは消えていた。
「ま、待って!」
 雪江はとっさに三閏の腕を掴んでいた。
「大丈夫。今日これからでも、大丈夫だから。」
 言ってしまってから、はっと気づく。まだ決めかねていたはずなのになんでこんなことを言ってしまったのだろう、と。
「あの、やっぱり一緒にとってる科目の方がいいですよね。えっと、有機化学と生化学概論、遺伝学、発生生物学でしたよね。」
「うん、そうだったかしら。」
「ちゃんと、勉強会にしますから。脱線しないように頑張りますから!」
「(・・・まあ、しょうがないか。なんとかなるでしょ。)」
 再び目を輝かせてしゃべりまくる三閏を前に、雪江はそう思うのだった。
 
 
「(だからと言って、本当に何もなしの勉強会オンリーとは思わなかったわ・・・。)」
 三閏の部屋で、黙々とただ勉強を続けている二人。時刻は21時過ぎ。もう4時間以上経っている計算になる。
「(4時間も若い男女が二人きりでいて、これですか。)」
 一人は本当は若くないけど。雪江はそう心の中で自分ツッコミを入れた。
 雪江としては、これ以上の何かが起きることを期待していたわけではなかった。が、覚悟は決めていただけに、それが実際には何も無いとなると拍子抜けせずにはいられないのだった。
 仕方なしに雪江は、教科書を目で追ってみる。
「ふう・・・。」
 本から顔を上げ、瞼を閉じ、息を吐く。目を開けると、一心不乱にノートに見入っている三閏の顔が見える。頬杖をつき、彼の顔をじっと見つめてみる。今月はまだ散髪に行っていないのか、前髪が目につきそうだ。ただ今の彼は、そんなことを気にしている様子はなかった。
「(眼中にない、なんてことは無いはずなんだけどな・・・。)」
 ふとそんなことを考えていた。そして、はっとして手で口を覆う。口に出したわけでもないのに。当然、三閏には聞こえていない。
「(何故そんなことを考えたんだろう。自分はやっぱり、何かを期待しているんだろうか?)」
 そう考えると、自分の顔が熱くなるのが感じられた。あるはずがないと思っていた、そんな感情がもしかしたら自分の中に出来てしまったのかもしれない。その思い自身、そして気づかなかった自分、どちらもが恥ずかしく思えた。それを隠すかのように、雪江は三閏に話しかけた。
「ねえ、おなかすかない?」
「唐突だね。」
 三閏は苦笑しながら答えた。
「でも、もう9時過ぎてるよ?」
「あ。ほんとだ。」
 三閏は時計を見て、本当に驚いていた。
「集中してたから、全然気づかなかった。」
「もっと遅くなるのもいやだし、外に食べに行こうか。」
「そうですね。どこかいい店あります?」
「うーん。私はあんまり外で食べないから、よく知らないのよ。」
「そうですか・・・。」
 三閏は少し考えて、言った。
「じゃあ、赤パンツにしましょう。あそこよく行くから。」
 
 大学のすぐ側にあるということもあって、「赤パンツ」は学生で賑わっていた。エスニック風居酒屋と自称している店はしかし、学生達の間では専ら何でもありの量が多い飲食店として認知されていた。
 陳曇丼(ちんどんどん)と西郷丼をそれぞれ注文した後、店員が去っていくのを見計らって雪江は言った。
「しかしこの『赤パンツ』って名前、飲食店としてはいまいちよね。」
「まあ、学生相手ですから。」
「それって理由になってないよねえ・・・。」
「でも実際僕らはそれで納得してますけど。」
 三閏はそう言って周りを見渡した。雪江も釣られて振り返ってみた。確かにそこにいるのは学生達であり、彼らは納得しているからこそこの店に食事に来ているのに違いはなかった。
 自分も今は学生なのだから、割り切ってこのセンスに馴染んだ方がいいのだろうか。しかし自分は本当は50代なのだからそんなものに染まるべきではないのか。雪江の中で小さな葛藤が芽生えた。
「どうかしました?」
 そんな雪江の様子をおかしいと思ったのか、三閏が心配そうに尋ねてくる。くだらないことで悩んでいる、と雪江は気づいた。そして、そのくだらない内容を三閏に知られてはならない、とも思った。雪江は大丈夫と答え、話を逸らすために別の話題を振った。
「多賀川君、さっき本当に集中してたね。」
「え? 勉強中のこと?」
「そう。なんだかもう、一心不乱って感じだった。」
「そう。それはきっと・・・。」
 三閏は少し口ごもった。何かを言うべきか、ためらっているようでもあった。そして、小さく呟くように次の言葉を発した。
「愛瀬さんがいたから・・・。」
「? 私がいた方が集中できるの?」
「えっとそうじゃなくて。勉強に集中しないと、変なことしちゃいそうだったから・・・。」
「・・・。」
 一瞬、雪江は呆気にとられる。あまりに予想外の彼の言葉に、どう反応すべきかを忘れていた。そして、笑い出した。
「あはっ、あはははっ、あははっ、あはっ。」
「な、何? 何?! 何!」
「いや、だって・・・おかしい・・・。」
「だから、なにが?」
「いや・・・いいのよ。君は律儀で純真だねえ。」
「だから何の話ですか一体!」
「そうムキにならないで。これは褒めてるんだから。」
「もう、わけわかんないよ。」
 あまりのおかしさに、雪江はつい素を出してしまっていた。そしてそれに釣られるかのように三閏もまた口調から敬語が消えていた。彼らは気づいていなかったが、それは二人の間の距離がぐっと縮まった現れだった。
「いやごめんね。これは、笑うべき事じゃなかったね。」
「そうですよ。愛瀬さん、失礼です。」
「ごめんごめん。お詫びに、ここはおごるから。ね、三閏君?」
 その呼び方に、三閏はどきりとした様子だった。雪江の顔をまじまじと見つめ、それ故に雪江もその呼び方が今までと違っていることに気づいた。それでも彼女は、もうしまったなどと思うことはなかった。
「ほら、ご飯来たよ。食べよう・・・うわー、これが陳曇丼?」
「そう。見た目はまさに陳曇丼でしょ?」
「うん・・・でもこれ、天津飯とも言わない?」
「ううん、陳曇丼です。」
 何事もなく、などという事は無かった。急速な進展こそ無かれ、二人の間にそれまであった壁は、この時にはすでに無くなっていたのだった。
 
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