荒野草途伸ルート >> 荒野草途伸独自小説 >>紫春>>4話
4.
 
 試験が始まる。雪江にとっては、この学校に入って初めて受ける試験であった。100人程度が入る中教室に、学生達が整然と座り、試験の開始を待っている。有機化学。雪江が所属する応用生物学科の2年生が全員受ける科目であり、この試験には同級生が全て勢揃いしているはずであった。
「(初めて見かける人もいるなあ・・・。)」
 教室中を見渡しながら、雪江はそんなことを考えていた。これまでたまたま視界に入らなかったのか、それとも授業に出てこない人なのか。
「(普段の出欠、どうしてるんだろ?)」
 確かに全部の授業に出席しなくても単位は取れるとは聞いているし、普段の出欠の取り方も緩くて代返も可能ではある。しかし、一度も出てこないとなるとさすがにまずいのではないだろうか?
 雪江がその解決法を思案しているうちに、教官が教室に入ってきた。手には、何かカード読み取り機のような者を持っていた。
「試験ですので、出欠は厳格に取りたいと思います。学生証を出してください。」
 教官がそう告げると、学生達が一斉に懐や鞄を探り出し、IC付きの学生証を取り出していく。教官は前列から順にその学生証を受け取り、読み取り機にかざして本人確認を行っていった。雪江は、学生証がいるとは思っていなかったため、まごついてしまってなかなか取り出せずにいた。
「あ、名刺入れの中に入れてたかな。」
 ようやく学生証を見つけ出した雪江は、それを取り出そうとした。が、手が滑ってしまい、学生証は雪江の手を離れて床に落ちた。プラスチックカードの学生証は床で跳ねてさらに遠方、雪江とは通路を挟んだ反対側の席にまで飛んでいってしまう。
「あっ・・・。」
 取りに行くため立ち上がろうとしたとき、その席にいた学生が学生証の存在に気づいた。雪江にとって初めて見る顔ではなかったが、しかしいつも代返を使っているのであまり見慣れない顔ではある。その学生は雪江の学生証を拾い上げ、まじまじと見つめた。その表情が、一瞬こわばった。
 返してもらおうと雪江が立ち上がったとき、教官がその列までやってきた。
「どうしました?」
「あの、これ。」
 向かいの学生が、拾った雪江の学生証を教官に差し出す。教官はそれを受け取り、雪江の顔と見比べた。
「あなたのですね?」
「は、はい。済みません。」
「照合してからお返ししますから。」
 そう言って教官は、読み取り機に雪江の学生証をかざした。無線LANのパケット送受信ランプが点滅し、ピッという音がした。
「・・・ああ、あなたが例の。」
 そう呟いた後、教官は雪江に学生証を差し出してきた。雪江は礼を言ってそれを受け取った。
「初めての試験、頑張ってくださいね。」
 そう言って教官は、向かいの学生の出欠確認を始めた。
 すぐ後ろの席にいた鯉子が、自分の出欠確認をすませてから話しかけてくる。
「もう。気をつけなきゃダメダメ、だよ?」
「うん。なんだか緊張しちゃって。」
「気楽にやればいいのに。追試だってあるんだよ?」
「そこら辺の理由じゃないんだけどね・・・。」
「ふーん。ま、何にしろリラックスリラックス。」
「そうね。ありがとう。」
 そう言って雪江は深呼吸をし、配られ始めた問題用紙の裏をじっと眺めた。そうしている間、通路の向かいの学生がずっと訝しげな顔で自分を見ていたことに、彼女は気がつかなかった。
 
 
 
「妙な噂を聞いたんだけどね。」
 雪江の取っていない科目、その試験会場となる教室に、三閏と鹿駈、それに理香がいた。
「なんでも、うちの学科にとんでもない年増がいるとか。」
「それってあたしの事じゃないでしょうね?」
「高校じゃないんだから二浪ばっかで年増呼ばわりはないだろう、医学部や法学部に行けばもっとすごいのがごろごろいるぞ。」
「じゃあ、何浪してる人なの?」
「わからん。ただ、歳はもう50行ってるとか。」
「50? それって、社会人学生とかいうのじゃないの?」
「うん。たぶんそういうことだと思うんだが。ただその人は、まるで普通の学生のように授業を受けてるんだそうだ。」
「社会人学生だって、授業は普通の学生と一緒の受けるでしょ。」
「いや、そういうことじゃない。その、何というか見た目が普通の学生みたいなんだそうだ。」
「なにそれ。秋葉原にいるような、リュック背負った中年親父みたいな感じ?」
「いや、そういうのとは違うと思うんだけど・・・第一そんな人、授業で見た事無いだろ?」
「え? 僕らと同じ年次なの?」
「あ、ああ。そうらしいって聞いた。いや、あくまで噂だからさ。」
「ああその話、あたしも聞いたよ。」
 それまで後ろで聞き耳を立てていた女子学生達が、話に割り込んできた。
「学生証に生年月日とか書いてあるじゃない。それが1970何年になってたって。」
「なんでも、試験中に学生証落としたのを拾って、見たらしいよ。」
「え? そんな人いたっけ?」
「いたいた。試験中じゃなくて、有機化学の試験が始まる前。でも、50代には見えなかったけどなあ。」
「なんかの見間違いじゃないの?」
「でもその人、気になって、いろいろ調べたらしいよ。で、本当に50代で30年以上前に短大を出てて、ここには編入学試験で入ったって。」
「うわー。そこまで調べちゃうかなー。」
「ほら、拾ったの、新濃君らしいから。」
「あー。彼なら確かにそこまでしそうだわ。」
「でも編入学できたって言うとあの人? 2年から入ってきた。」
「そうそう。愛瀬さんって言ったっけ?」
 三閏達3人の表情がこわばりついた。特に三閏にとっては、衝撃的な話だった。愛瀬さん。あの、いつも一緒にいて、話しかけると笑ってくれて、馬鹿なことをすると呆れたような表情を見せるあの愛瀬さん。
「・・・あ。」
 女子学生の一人が、はっと気がついたように口に手を当てた。
「・・・あの、あなた達いつも、愛瀬さんと一緒にいる・・・よね?」
「う、うん。そうだけど。」
「あ、あのごめんね、あたしらほんとは噂聞いただけで、よく知らないし・・・。」
「いや、気にしなくていいよ。話し始めたの俺だし。」
「そ、そう? あ、あたしちょっと飲み物買ってくるから。」
「あ、わたしも行く!」
 女子学生達は、そそくさとその場を立ち去っていった。後に残された3人は、何をするわけでも言うわけでもなく、その場に呆然としたままでいた。場が重苦しくなっていた。
 暫くして、三閏が口を開いた。
「・・・ほんとの話かな。」
「雪江・・・。」
 理香も口を開く。
「前に歳訊いたとき、答えなかったんだよね。」
「僕らに歳ばれるのが嫌だったから?」
「そりゃぁ・・・。事実なら、殆どの先生よりも上だしなあ。やりづらくなるだろ。」
「でも・・・それにしては若すぎだよね。」
「ああ。編入学って聞いてたから上だろうとは思ってたけど、それが無けりゃ年下と言われても信じたくらいだしなあ。」
「ちょっとあり得ないよね。」
「うん。せめて30とか・・・。」
「でも新濃が調べたって行ってたぞ。」
「その新濃って人あたしよく知らないんだけど・・・どこまで信用できるの?」
「滅多に学校来ない奴だからなー。いろいろ怪しいことやってるみたいだし。ただ、自分の利益にならん嘘はつかんと思うぞ。」
「そっか・・・。本人に直接確かめた方がいいかな?」
「新濃に? それとも、愛瀬さんに?」
「あたしは、前者のつもりで言ったけど・・・。」
 そう言って理香は、ちらりと三閏を見た。
「あんたはどうするの?」
「え?」
「今日この後、愛瀬さんと同じ試験あるんでしょ?」
「あ・・・。」
「何も訊かずに済ませられるんなら、それでいいけど。」
「・・・・。」
「ま、判断はあんたに任せるわ。その場の雰囲気にも依るだろうし。」
 そう言い残すと、理香は席に着いた。教官がやってきたのだった。試験が始まってでからも、三閏はこれからどうするか結論を出すのに悩んでいた。
 
 
 
 その夜。雪江と三閏をのぞく4人が、直貫の家に集まっていた。
「三閏は?」
「気分が悪いから家で寝てるって。」
「あの事、愛瀬さんに訊いたのか?」
「訊けなかったみたい。その事もあって寝込んでるんじゃないですかね。」
「そうか・・・。」
 直貫が腕組みをしながら呟いた。
「愛瀬さんにも、こういう噂が流れていることは知っておいて欲しかったのだが・・・。」
「え? なんで?」
「噂は急速に広まっている。この手の話はあんまり振られない、俺の耳に入るくらいにな。」
「じゃあ、いずれ愛瀬さんの耳にも入ると? なら同じ事じゃないか。」
「親しい者とそうでない者から聞くのでは、受け止め方が全然違う。それに――」
「それに?」
「何も知らないまま愛瀬さんが孤立してしまうこともあり得る。」
「・・・・。」
「あたしら次第、って事?」
「そういう事になるな。」
 4人は沈黙した。時計の針がコッチコッチと音を立てているのが聞こえた。
「何でこんなことになっちまったのかなあ。」
 沈黙を破ったのは鹿駈だった。
「新濃に訊いたら、本当だって言い張るしなあ。」
「そうなのか?」
「入学者名簿調べたんだとよ。どうやって調べたかは言わなかったけどな。」
「本当なんだ。」
 理香が膝に顔を埋めながら呟いた。
「そりゃ長いつきあいじゃないけど、あたしら、そんな事全然知らなかったよね・・・。」
「私、うすうす気づいてた。」
 皆の顔が一斉に、発言者の鯉子の方に向く。
「3月頃にね、先生達が話してるのを聞いたことがあるの。50過ぎた人が今度編入学で入ってくるけど、医学部からの申し送りでいろいろ配慮しなきゃいけない事があるって。」
「・・・。」
「幹細胞化誘導療法っていう新しい治療法があるらしいの。体細胞をいったん全部NTES細胞にした後で、体を再構築すると、その人の若いときの体が復元できるんだって。それで、M大の医学部でその治療を受けた人だから、見た目は二十歳ぐらいに見えるけど、って話だった。」
「それが、愛瀬さん・・・?」
「うん。4月になって愛瀬さんが編入学で入ってきたとき、ああこの人か、って思った。」
「じゃあ、なんでそれを・・・」
「確証があった訳じゃないもん。それに、愛瀬さんが自分で言わないことなら、私が言うべき事じゃないのかなって・・・。」
「まあ、確かにそれはそうかもな。」
「でも、こうなっちゃった以上もうそうも言ってられないよね・・・。」
「伝えた方がいいんだろうな。」
 そこで4人とも一瞬沈黙する。
「・・・誰が?」
「俺が言ってもいいんだが・・・その場合三閏が、な。」
「三閏君以外の人から聞いたとなると、あとあと二人の関係に尾を引いちゃうかもね。」
「奴はもう知ってるわけだからな。」
「・・・ったく、何でこんなときにあいつは寝込むかな。」
「こんなときだからこそだと思うけど。でも、とにかく起きてもらわないと、話進まないよね。」
「そうだな。じゃあみんなで三閏に言い聞かせるという事で。それと、出来るだけ噂が変な方向に向かわないように努力する事。それでいいかな?」
「はぁい。」
「うん、OK。」
「了解っす。」
 申し合わせを決めた4人は、その場を解散した。
 
 
 結局、三閏はずっと寝込んだままだった。雪江はまだ何も知らないままだった。
 
 
 試験最終日。発生生物学の試験が行われる教室に雪江は向かっていた。開かれたままの扉をくぐり、中に入る。既に数名の学生がそこにはいた。
「おはよう。」
 軽く声を掛ける。学生達は、何の返答も返してこなかった。空いている席、いつも自分が座る席に着こうとする。前の黒板に目が向く。何かが書いてある。雪江は目を見張った。
『ババアはホームにカエレ!』
 動けなくなる。どういう意味だ? ババア、ババア。誰のことだ? カエレ、カエレ。帰れって、どこから? え、誰が?
 雪江はもう一度、その場にいる学生の方に目を向ける。彼らはさっと目を逸らした。雪江の中で、一つの答えが形を表す。
 私の、事なのか?
 硬直し、そのまま立ちすくんでしまう。置きかけだった荷物がぱさりと床に落ちた。思考が重い、時間が重い。何故こんなことを言われるのか、何故こんなことになったのか、何故知っているんだ、一体、誰が? このまま席に着くべきなのか、一度ここから出るべきなのか。次に何をすべきか、判断が出来ない。
 雪江が呆然としている間にも、他の学生達が次々と教室に入ってくる。皆黒板に大書された言葉を見てぎょっとし、教室の中程で立ちすくんでいる雪江を一瞥する。そして、何も見ていないかのように無言で、普段彼らが座っている場所へと向かっていく。5人、10人、20人。教室の中の人数が増えても、誰一人雪江に声を掛けたりする者などいなかった。
 そして、三閏がやってきた。ずっと寝込んでいて試験も欠席していた彼は、どこか目が虚ろであったが、しかし雪江の姿を認めると気まずそうにしながらも彼女に近づいていった。しかし、雪江の様子がおかしいことに気づく。雪江の視線をたどり、黒板に目をやる。大書された文字。彼も、その言葉の意味するところを理解した。
 虚ろだった目が、かっと見開かれる。
「なんだよ、これはっ!」
 教室の外にまで聞こえるほどの大声で怒鳴りつける。部屋中の学生達がびくりと肩を震わせ、一斉に声の主に注目した。黒板の前にまで移動した三閏が、バーンと、黒板に手を打ち付ける。学生達は三閏の怒りが本物であることを知り、一斉に目を逸らす。
「誰だっ、誰だこんなことを書いたのは! お前か?!」
 最前列にいた学生の胸ぐらを掴み、怒鳴りつける。
「ち、違うっ・・・。」
「じゃあ誰だっ!」
「知らん、俺が来たときには、もう・・・」
「ここに最初に来た奴誰だっ!」
 学生達は三閏と目を合わせないようにしつつ、お互いをちらちらと見ている。誰でもいい、誰かが名乗り出て早くこの場を収めてくれ。誰もがそう言いたげな雰囲気であった。
 その時、そもそもの噂の発端である新濃が、教室に入ってきた。三閏は新濃にくってかかっていった。
「お前かっ、お前の差し金なのか?!」
「な、なんだいきなり!」
「お前が、お前がよけいな噂流したりするせいで、愛瀬さんは・・・。」
 怒りがあふれ、言葉を詰まらせる三閏。ようやく平常心が戻ってきた雪江は、三閏に声を掛ける。
「三閏君、もう、もういいから。」
 それをきっかけに、萎縮していた学生達がひそひそ話を始めた。
「なんなんだ、あいつ。」
「黙って消せば済む話だろうが。」
「頭おかしいんじゃない?」
「あいつ、あの人のこと好きなんじゃないのか?」
「えー? だってあの人50超えてんでしょ?」
「ありえなーい。」
「ババ専か、キモいな。」
 思い思い好き勝手なことを言う学生達。そんな彼らを、三閏はきっと睨み付けて、言い放った。
「愛瀬さんを好きでなにが悪いっ! 好きな人をかばってなにが悪いっ!」
 再び静まりかえる教室。雪江は、再び平常心ではいられなくなっていた。大勢の前で。はっきりと。自分をかばって。好きと言ってくれた。
 廊下から歌声が聞こえ、戸口に鹿駈達4人が現れた。
「1+1を〜3にする〜♪ ややっ、これは一体どうしたことだ?!」
 教室のただならぬ雰囲気に、鹿駈が思わず声を上げる。そして、咄嗟に事態を把握した直貫が、三閏に歩み寄る。
「とりあえず席に着こう。な。鯉子、悪いが黒板を消してくれ。」
「うん、わかった。」
 理香は、雪江の元に駆け寄った。
「愛瀬さん、大丈夫?」
「え、ええ。私は・・・平気。」
「あっちの席空いてるから、移動しない? その、一人じゃアレでしょ?」
「そ、そうね。」
 別に一人でも大丈夫、と思ったが、折角の理香の配慮を無にすることもないと思い、雪江は導かれるまま席を移動した。三閏も、直貫に背中を押されるようにしてやってきた。雪江の中で三閏の先ほどの言葉がよみがえり、赤面しそうになって咄嗟に目を逸らしてしまった。
「・・・あ。あの、ごめんなさい。余計なことしちゃって・・・。」
 機嫌を損ねたと思ったのか、三閏が申し訳なさそうに謝ってくる。雪江は三閏の顔を見つめた。いつもと同じ、何となく気弱そうな三閏がそこにいた。
「ううん、違うの。その・・・嬉しかった。」
「え?」
「かばってくれたこと。好きって言ってくれたこと。あなたのストレートな、その想い。」
「あ・・・。」
 こいつら恥ずかしい会話してるなあ、とばかりに、隣に座っている直貫と理香、鹿駈は目を逸らしたり頭をかいていた。黒板消し終わったよー、という鯉子の雰囲気ぶち壊しの甲高い声が、彼らにとってはむしろ救いだった。それは、周りにいる者にとっても同じだった。先程まで雪江がいた席の近くにいる学生が、ショルダーバックをもって雪江のところまでやってきた。
「あの、これ。落ちてたんですけど・・・。」
「あ。さっき落としちゃったんだ。ありがとう。」
「いえ。と言うかその、できれば気にしないでください、僕らの言ったこと・・・。」
「え。そ、そうね。」
「済みませんでした。」
 そう言って男子学生は、席に戻っていった。入れ替わりに、教官が発言した。
「では、試験を始めたいと思います。」
「って、先生いつの間に来てたんですか?!」
「さっきから来てたよー? 私が黒板消してる最中に。」
「だったらそう言ってくれ・・・。」
「気づいてると思ったのにー。」
 そして試験は始まった。問題に向き合いながら、雪江は考えていた。これが終われば、今までとは変わる。自分にとって新しい時間が、やってくるのだと。雪江は三閏をちらりと見た。三閏は真剣な表情で一心不乱に問題を解いていた。
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