5.
夏休みに入った。試験が終わってからまだそんなに日数は経っていなかったが、その時の騒動はもうすっかり、少なくとも雪江の中ではすっかり過去のものになっていた。三閏は一度だけ、犯人を割り出さなくてはいけないと騒いだが、雪江がもういいからとなだめたのだった。本当に、雪江の中ではもうどうでもいいことになっていた。そんなことよりも、新しく始まった二人の関係をもっと楽しみたいと思っていた。
時刻は朝8時半。その日、雪江は三閏と博物館に行くことになっていた。「大いなる昆布、その自然と文明展」というものが開かれているから是非行こうと、三閏から誘われていたのだった。
「デート、よね。これって。」
そう呟きながら、雪江は身支度をしていた。以前そんなものをしたのは、いつのことだったろうか。20年、30年? もしかしたら自分の中で記憶が美化されて、デートでないものをデートと思いこんでいるのかもしれない、そんなことすら考えられるくらい昔の話だ。
でももしその記憶が正しいものなら、その時デートした相手は年上の男だったはずだ。それが釣り合う、当たり前なのだと、雪江自身も思いこんでいた。それが、今日はどうだ。三閏は一体、自分よりいくつ年下だ? 最後にデートした時より後に生まれてきたのではないか。あの頃からすれば、非常識なくらいの差ではないか。
「・・・ま、そういう事はもう考えないでおこう。」
雪江は習慣的に鏡をのぞき込んだ。目尻に小皺があるのを見つけた。
「やあねえ、もう。」
そう言いながら雪江は、慣れた手つきでそれを隠す化粧をした。きっと三閏は、こんなことしなくても気がつかないんだろうなと思いながら。
待ち合わせ時間の10時より、5分早く雪江は到着した。三閏は既にそこにいた。
「早かったのね。」
「場所がわからないといけないと思って。」
「誰が?」
「え? その、愛瀬さんが。」
「おかしな事言うのね。場所がわからなかったら、そもそも三閏君見つけることできないはずでしょ?」
「あ、そうか。」
「まあ、早く来てくれてたのは嬉しいけどね。」
そう言って雪江は、三閏の腕を取った。
「さ、行きましょうか。」
「え。でもまだみんな来てないし。」
・・・みんな? 雪江の頭の中に、疑問符が浮かぶ。
「みんなって?」
「え、ほら、直貫とか。みんな。」
「・・・何であの子達が来るの?」
「なんでって、ここが待ち合わせ場所だし。」
「そういう事を訊いてるんじゃなくてね・・・・」
雪江の心がキレ始めた。
「二人で会うんだから、わざわざあの子達呼ぶ必要なんか無いでしょう?」
「え? 何で二人なんですか?」
「だってデートでしょう!」
「で、デート・・・っ?!」
三閏の顔がぼっと赤くなった。
「そ、そんなっ。デートだなんて。そんな贅沢な。恐れ多いですっ。」
「恐れ多いって、何それ!」
「よーお、もしかして待たせたか? でも2分の遅刻は誤差の範囲内、中の町はコザの範囲内だよな。ってありゃ、なんかまずい雰囲気?」
それまでの状況をを全く知らない、知るはずもない鹿駈がやってきて二人に声を掛ける。続いて直貫・理香・鯉子もやってきた。本当にみんな来た、そう思った雪江からは、全身の力が抜けていった。ガックリと地に手をつきたい気分だった。
「あ、あの。愛瀬さん?」
「ほっといて。ちょっと今しゃべる気分じゃないの。」
「おいおい、一体どうしたんだ? いきなり喧嘩か?」
「うん・・・そうなのかも。でも原因がさっぱりわからない。」
「経緯を説明しろ。」
「僕ら二人が先に来て。愛瀬さんが先に入ろうって言うから、僕はまだみんな来てないから待とうって言ったら、愛瀬さんが怒り出して。その、デートじゃないのかって。」
「・・・あー。わかったわかった。あんた、あたしらが一緒に来るって事言ってなかったでしょ?」
「え? うん、言ってなかったかも。言わなくてもまあわかるかと思って・・・。」
「はあ・・・。」
理香達3人は呆れたようにため息をつき、そして雪江に言った。
「ごめんね。今日は、鯉子が昆布展見たいって言いだして、それでみんなで来ることになったんだ。最初からそういう話だったの。」
「・・・そうなの。」
「うん。三閏じゃなくてあたしから言った方が良かったね。ごめんね。」
「・・・うん、わかったから。もう、いいよ。」
「そう? あ、三閏はちゃんと謝っときなさいよ。」
「う、うん。」
「原因ちゃんと理解してからね。」
「わ、わかった。」
話の区切りがついたところを見計らって、鯉子が高らかに宣言した。
「それじゃ。とりあえずみんなで中に入りましょー!」
「ああ、そうだな。」
「コンブコンブー!」
鯉子はバンザイしながら、レンガ造りの建物の中に駆け込んでいった。
「・・・ということがあったのよ。」
雪江は医学部にある嘉名の研究室にいた。時折経過を報告し、必要に応じて検査を行う。それは、名目上は治験という事になっている雪江の手術を実施する際に取り決められた事であった。手術費用は莫大である一方で健康保険は利かず、雪江の持つ蓄えでは到底足りない。そのため、そのような措置が執られたのであった。無論、完成した技術に対して治験=実証性を確認するテストを行う必要など無く、つまりは雪江の受けた「幹細胞化誘導療法」はいまだ効果や安全性がはっきり証明された医療技術ではないのだった。
雪江自身からの報告では、特に異常はないことになっている。それでも嘉名はそういう事情がある故に、雪江の体に何か異常がないか、注意深く調べずにはいられなかった。
「ねえ、聞いてます?」
「ええ。ちゃんと聞いてますよ。」
「私、彼のことがよくわかりません。若い男の子ってみんなこうなんでしょうか。」
「今まで知り合った人もそうだったの?」
「今までは・・・私、あそこまで若い子と付き合ったこと、無いから。だから若い男の子のことよくわからないの。」
「私も、そういうのはせいぜい人並み程度の経験しかないけど・・・。」
嘉名は下から上に丹念に触診をしながら言った。
「あなたは彼のこと、ただの若い男の子、としか見ていないのかしら?」
「ええ?」
「若い子はこう、とか、男はこう、とか。そういう風に考えてたら、ずっと彼のこと理解するなんて、出来ないと思うわよ?」
「・・・。」
「彼がどんな人で、どんなものの考え方するのか。知っている事と知らない事は何か。自分と何が同じで、何が違うのか。それを踏まえた上で彼のこと見ないと、一生わからないままで終わるわよ?」
「・・・そうね。その通りだわ。」
嘉名は顔の部分の検査に入った。雪江の顔を覗き込み、そこではっとした表情になる。
「・・・どうかしました?」
「いえ。ごめんなさい、なんだか若い子に説教するような事言っちゃったわ。」
「いえ、そんな。」
「見た目が若いせいか、つい自分と同じ年代だという事を忘れてしまうのね。私もあなたのこと言えないわ。」
「気にしないでください、私、中身もちょっとそういうところありますから。」
「そういうところ? 精神的に幼いとでも言いたいのかしら。」
「そう・・・なりますか。」
「まあそれはそれで、気が若いって事でいいことだとも思うけど。」
嘉名は身を起こして、雪江が横たわるベッドの横の椅子に座り直した。
「ところで・・・顔のここ。小皺が出来ているんだけど。」
「あらやだ。けさちゃんと化粧したのに。」
「これは、今日初めて?」
「いいえ。」
「いつ頃から?」
「前はこんなのあるのが当たり前だったから、気にも留めなかったけど・・・そうね、気づいたのは数日前かしら。そう、さっき話した、博物館に行く日が最初かしら。」
「そう・・・。」
「確かに二十歳の娘にこんなの普通無いわよね。いろいろあったから、疲れが出たのかしら。」
「それだったらいいのだけど・・・。」
嘉名はキーを叩いて電子カルテを見た後、カレンダーを取り出して言った。
「今、夏休みなのよね。」
「はい。」
「なら時間は取りやすいわね。」
「そうですね。」
「一度、1日か2日かけて綿密な検査をしたいのだけど。」
「それはかまいませんけど・・・。」
「来週から盆休みに入ってしまうから、それ以降になるけど。特に都合が悪くなければ、23日なんてどうでしょう?」
「いいですよ。でも・・・。」
雪江は口ごもった。
「・・・何か、体の方に問題があるんですか?」
「それを調べるための検査をしたいんです。まあそんなに身構えなくても、健康診断みたいなものだと思って気楽に受けてもらえればいいわ。」
「そう、ですか。」
なお不安の表情を隠さない雪江に、嘉名は付け加えた。
「その不安、彼に打ち明けてみたら? きっと心配してくれるわよ。」
その夜。三閏の部屋に一同が会していた。雪江が三閏に検査のことを話した後、励ます会をやるからと、呼ばれたのであった。だが、買い出しに出ている三閏と鯉子を除いた4人がそこにいたが、皆一様に沈痛な表情であった。誰も、何も、一言もしゃべらない。その雰囲気にたまりかねて、雪江が声を上げた。
「ちょっと、なんなのこの雰囲気は! まるでお通夜じゃないの。」
「だって、お通夜みたいなもの・・・でしょ?」
「そういう風に三閏から聞いてますけど。」
「ハア?」
「不治の病で先が長くないとか。」
「え、ちょっと待っ」
「もちろん、今度受ける検査の結果次第なんでしょうけど。」
「いや、あのね。」
一体彼らは、三閏からどういう風に聞いているのか。確かに自分が不安を感じていたのは事実だが、ここまでのものじゃない。一体彼は、何をどう勘違いしたのか。
「検査を受けるのは事実よ。でも、病気とかそういうのじゃないの。なんというか、定期健診みたいなもので。だから、そんな大騒ぎするようなものじゃないの。」
嘉名に自分が言われたことを、ほとんどそのまま繰り返す。これではどちらが励ましているんだかわからない、雪江はそう思った。
「ほんとにただの検査?」
「結果が100%いいものである保証はないけど、でもどこか悪いからとかいうものじゃないって聞いてるわ。」
「でも、それにしてはさんぞー、必死すぎだった。」
「ああ。愛瀬さん死んじゃうかもしれないとか、泣きそうな声で電話かけてきたからな。」
「これはただごとじゃない、って思ってあわてて駆けつけてきたんだが。」
「・・・・。」
確かに、心配してくれた。でもこれでは行き過ぎだ。雪江はため息をつかずにはいられなかった。
「ほんとに、なんでもないの?」
「あるかもしれないけど、少なくとも死ぬほどじゃないと思うわ。」
「じゃあなんでさんぞーは。」
「不安感じてたのは事実だから。その辺を、何か誤解したんだと思う。」
「ったく、あいつは・・・。」
「たっだいまー!」
勢いの良い声とともに、鯉子と三閏が帰ってきた。残っていた面子は、一斉に三閏の顔を見る。その視線に気づいた三閏は、一瞬たじろいだ。
「え? な、なにかな?」
「三閏。お前、話全然違うじゃないかよ!」
「話違うって。」
「愛瀬さん死ぬかもとか、いい加減なことぬかしやがって。」
「ほら、やっぱりみんな誤解してる!」
荷物を持ったまま突っ立ったままの三閏の隣から、鯉子が言った。
「あのね。行きすがら聞いたんだけど。愛瀬さん、別に病気とかじゃなくて、普通に術後の検査受けるだけなんだって。」
「うん。俺らも今し方本人から聞いた。」
「ったく、何でこういう甚だしい勘違いをするかなあ、こいつは。」
「三閏君は三閏君で、愛瀬さんのこと心配だったみたいだよ?」
「それはわかるが、今回のはちょっと酷いだろう。」
「三閏。こんなことだから、愛瀬さん付き合ってくれないんじゃないのか?」
ちょっと待て。雪江は思った。またとんでもないことを聞いてしまった気がする。付き合ってくれないって、どういう事だ?
「あの、それどういう事?」
「あ。いや、済まない。こっちが勝手に理由決めつける事じゃないよな。」
「いや、そうじゃなくて。付き合ってくれないって、どういう事?」
「どういう事・・・って。」
直貫は、その場にいる面々と顔を見合わせた。
「三閏が、付き合って欲しいていう返事をしてもらえないって」
「してもらえないって。え? だって私たちもう・・・。」
「んんん?」
直貫は、まだ突っ立ったままの三閏を手招きして呼び寄せた。
「お前、ちょっとこっち来い。ここ座れ。」
「な、なに。」
「なんか、また話違うみたいじゃないか。どういうことだ?」
「どういうことって・・・。僕は、まだ愛瀬さんから何も返事をもらってないし。」
「返事・・・って言われても。私としては、ああいう形で告白してもらって、そのあとなし崩しではあるけどもう付き合ってる形になってるのかなって・・・。」
「・・・つまり三閏、お前ははっきり『付き合って欲しい』と言った訳じゃないんだな?」
「それはその・・・。うん、そうだけど。その。言わなくても愛瀬さん今まで以上に仲良くしてくれるし、下手にこっちから言ったら『何を今更』とか笑われるんじゃないかと・・・。」
「はぁ・・・。」
「ダメすぎ。三閏、お前ダメすぎ。」
「え? え?」
三閏は戸惑って、きょろきょろ首を振りながら救いを求めるようにその場にいる全員の顔を見た。皆が皆、首を横に振った。三閏は、しょんぼりとうなだれてしまった。
「落ち込む前に、やることがあるだろ。三閏。」
鹿駈が、三閏の肩を叩きながら言った。
「え?」
「言え。今ここで言え。改めて言え。笑われても断られちまっても、付き合って欲しいというお前の希望を愛瀬さんに伝えろ。」
「・・・。」
「みんながいたら恥ずかしくて言いづらいか。よし、それなら俺たちは部屋の隅に行ってる。なるたけ聞かないようにしてやるから、二人だけの雰囲気で告れ。」
「雰囲気だけかよ、おい。」
鹿駈達4人は、ぞろぞろと部屋の隅、押入の脇にまで移動した。
「あの・・・。」
「あー、いいからいいから。俺たちはこっちで好き勝手やってますから、愛瀬さんは三閏の話聞いてやってください。」
「でも好き勝手やってるって、何してればいいのよ。」
「そうだなあ。とりあえず、三閏君の隠された秘密でも探りますか。」
「隠された秘密って、そんなのがあるの?」
「うむ、例えばこんな・・・。」
鹿駈は押し入れの中に手を突っ込み、ごそごそと中を探って一冊の雑誌を取り出した。ゲーム雑誌のようだが、表紙に目の大きな女の子の絵が描いてある。それが何であるかわかってしまった雪江は、思わず苦笑した。
「うむ、エロいっ。」
雑誌を開いて中を見た鹿駈が、しきりに納得している。三閏が立ち上がり、鹿駈の側まで歩み寄り、雑誌を奪い取って丸め、それで鹿駈の頭をはたいた。パンッ、といい音がした。
「これはさすがにお前が悪いだろう。」
直貫が呆れたように呟く。鹿駈は、へへ、といいながら頭をかいた。三閏は怒り収まらぬのかはぁはぁと肩で息をしていたが、やがてはっと気がついたように、雪江のいる方に振り返った。雪江は、はぁ、とため息をつかずにいられなかったが、しかし一呼吸置いたのちこう言った。
「話。とりあえず話は聞かせて。」
「は、はいっ。」
三閏は再び雪江の側に座り直した。そして言った。
「あの。こんな僕ですけど。欠点だらけの僕ですけど。でも僕、愛瀬さんと一緒にいたいんです。だから、改めて言います。僕と、お付き合いしてくださいっ。」
欠点だらけ、か。雪江は思った。確かにその通りだ。呆れてしまうくらいに。でも、欠点というのならそれはきっと自分にだってある。彼以外の他の男にだって、当然にある。そんな中の一つだと思えば、許容できないこともない。完璧な男など存在しないのだ、どんなに歳を重ねていても。
「うん、いいよ。」
それが、雪江の出した答えだった。
「でも。早とちりの癖は直してね。何度も続くとさすがに参るから。」
「は、はいっ。ありがとうございますっ!」
三閏は、床に頭をすりつけるような勢いで何度も頭を下げていた。雪江はまた苦笑せずにはいられなかった。
「あのね。もう私たち付き合ってるんだから。そういう相手にその態度は、ちょっとおかしいと思うよ?」
「そ、そうですね。」
「その言い方も、ちょっとヘン。あと、今までの『愛瀬さん』って言い方もかな。ああ、何でこんなことまで指導しなきゃならないのかしら。」
「そ、そうで・・・そうかな。じゃあなんて呼んだら・・・呼ぼう・・・か?」
「マナマナ。」
「え、その呼び方はちょっと。」
「じゃあ、ゆきゆき。」
「対して変わんないって。」
「ゆきりん。」
「ゆきねえ。」
「なんかこう、変なものの考え方が入ってるような気がしてならないのよねー。」
「と言うより、なるたけ話は聞かないようにするんじゃなかったのぉ?」
外野がうるさい、そう雪江は思った。
「雪江さん、でいいですか? 僕のこと、三閏君って呼んでくれてるし。」
三閏からの返答に、雪江は頷いた。
「うん。それじゃあ、改めてよろしくね。三閏君。」
「はい、雪江さん。」
二人は微笑みあった。三閏にはまだ少し照れがあって、ぎこちなさが感じられた。その照れが雪江にも伝播して、思わずへへ、と声が漏れてしまった。しばらくの間何も言えず、ただ二人で見つめ合っていた。
「ゆきっぺ。」
「だから、そんなの絶対不許可だって。」
外野はまだうるさかった。
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