――むかしむかし、あるところにちょっと人のいい男がおりました。
男は、人柄は良かったのですが、時々川や森を見ながらぶつぶつとよくわからないことを呟いたりするので、村人達からは変わり者扱いされておりました。
男の方も、自分は少し他人と違うなと思っておりました。仲間の間でやることに、うまく合わせられないこともありました。そんなとき、男はひどく寂しくなり、一人森の中に入って、木々に囲まれながら長い時間座り込んで、物思いに沈んでいました。そのうち男は、特に理由が無くても森に入ってゆき、一人で過ごしていることが多くなりました。
ある日男は、森の中で一人の女に会いました。女は森の中で木漏れ日を浴び、わらいながら誰かと話をしているようでした。しかし、誰と話しているのか、男にはわかりませんでした。女の周りには、人の姿は誰一人見えなかったからです。
女はすぐ、男の存在に気づきました。そして男にほほえみかけながら、語りかけました。
「こっちへいらっしゃい。来て、一緒にお話ししましょう。」
まるで心の底から呼びかけてくるかのようなその声に、男は誘われるまま女の元に歩いてゆきました。男が女のそばに座ると、女は両手をひろげて、周り中に話しかけるように言いました。
「さあみんな、新しいお友達よ。」
すると、男の心の底から、女のものとは違う、いろいろな声が聞こえてくるようになりました。それは、ふたりの周りにいる、たくさんの木々や、鳥や小動物達が、男に語りかけてくる声でした。
男はとてもおどろきました。でも、今まで聞いたこともない木や鳥の声を聞くのが楽しくて、ずっとそれを聞き続けていました。また、男が話しかけると、その声もまた、ふしぎなことに木や鳥たちに伝わっていくのでありました。
男は、毎日森に出かけてゆくようになりました。森に住むもの達と話すことは、村にいるよりもずっと楽しいことだと思ったのです。森には女がいて、そして男は森に住むものと話すことが出来ました。でも、女がいないこともありました。女がいないと、男には木や鳥の声は聞こえては来ませんでした。そんなとき男は、森の中で女の名を呼びました。するといつの間にか女がそばにいて、また森の声が聞こえてくるようになるのでした。
でも、そんな日も長くは続きませんでした。男が毎日森に出かけてゆくのを、村の人たちがあやしむようになったのです。そして、男のあとをつけて森の中に入っていった村人の一人が、森の中で女と二人でいる男の姿を見てしまいました。
その村人には、森の声は聞こえませんでした。話を聞いた村人達は、男がその女と恋仲になったのだと思いこんでしまいました。そして男に、そんなに好き合っているなら、わざわざ森の中で会ったりせずに、村に連れてきて夫婦になればよいといいました。
男はこまってしまいました。女と夫婦になることは、決して悪くないと思いました。でも男は、前に聞かされていました。森をはなれ、人々の中に溶け込んでしまえば、森の声はもう二度と聞こえなくなってしまう。男にも、声を伝えてきた女にも。
男は、答えを出せないまま、また森にゆきました。森にいた女は、すぐに男の抱えている悩みを見抜きました。そして男にこういいました。
「行きましょう。私は、あなたと共に参ります。」
それでいいのか、もう森の声はきこえなくなってしまうんだぞ、そう問いかける男に、女はいいました。声は聞こえなくても、私たちが言葉ではなしかけなくても、森はきっと育ってゆく。私たちも、森を守ってゆくことはできる。それに、と女はいいました。またいつかきっと、私のように、森に入っていって、生き物たちの声を聞き、伝えることの出来るのものが生まれてくるでしょうと。
女は、男と共に森をでました。村の中に入り、夫婦となった二人には、森の声はもう聞こえなくなりました。それでも二人は、自分たちのもうけた子に自分たちが聞いた森の声を、物語って聞かせ、伝えてゆきました。そして、昔聞いたその声を思い出しながら、一生森を守ってゆきました。
1.
「7,8,9,10。」
まるで遠くから聞こえるように、回転周期をカウントする声が聞こえる。僕はその声を、当たり前のように聞き流していた。
「ちょっと、今の記録したの!」
「え?」
慌てて我に返ると、すぐさま自分が何をしているのかが思い出された。目の前で、大きな金属板がゆっくりと回っていた。
「もう・・・講義ならともかく、実験の授業中にぼんやりしないでよね。最初からやり直しじゃない・・・。」
半立ちになって僕につかみかかろうとしていた古瀬智羽は、諦めたように大きく息を吐き、そのままどっしりと深く椅子に座り直した。
「ごめん・・・」
僕は、とりあえず謝るしかなかった。重りのような金属板は、まだその感性を失わず回り続けていた。そして僕の肩に、軽く重みが感じられた。
「睡眠不足かな、響助君?」
振り返って、肩に腕を乗せた犯人の顔を見極める。前髪が撥ねて眼鏡をかけた、紺田洋平の顔がそこにあった。
「いや、睡眠不足というほどのことはないと思うんだけど・・・たぶん。」
「では風邪か二日酔いかね? それなら薬があるが。」
「いや、残念ながらどちらでもない。それ以外の病気でもない。だから薬は必要ない。あり得ない。」
紺田に薬を押しつけられるのではないかと危惧した僕は、言葉を並べ立ててあらゆる薬の必要がないことを主張した。彼は、何の考えがあってのことか知らないが、常時いろんな薬を持ち歩いている。しかも彼は、何かにつけて僕のことをかまおうとする。迂闊な応答をすれば、つけ込まれて訳のわからない薬を何種類も押しつけられかねない。
「本当に必要ないんだ。お引き取り願おう。」
「そうか? じゃあせめて、このビタミンEの錠剤だけでも・・・」
「いやいらないって。マジで。あ、ビタミンの必要性についての講義なら前に聞いたからそれも必要ない。」
「あ、じゃあそれ、あたしが欲しい!」
古瀬が話に割り込んできた。跳ね起きるように椅子から立ち上がり、台座に手を置いていた。その衝撃で回り続けていた金属板が揺れ、回転に加えて振り子運動を始めた。
「何だ君は。またそうやって、響助君の薬を横取りするつもりかい?」
「いいじゃない、響助君いらないって言ってるんだから。」
「彼の要る要らないの意志はこの際関係ない。俺が彼にとって必要と判断した、それが大切なのだ。」
無茶苦茶な理屈だ。僕の意志はどうでもいいって?
「あたしにとっても必要だと判断してよ。」
「悪いが、とてもそうは思えない。君は見るからに健康そのものではないか。体も、アタマも。」
それは無いと僕は心の中でつっこみを入れた。
「経済的には不健康だもん。」
そう言って古瀬は、椅子の上でふんぞり返った。決して自慢することではないと思った。
「ああ、わかったわかった。じゃあこのビタミンE錠剤は君にやる。口を開けろ」
「ちょっと待った。口を開けろって、この場で口の中に放り込む気?」
「当然だ。この俺の指はじきの腕前、とくと見るが良い。」
そういって紺田は、大仰な構えをして見せて、古瀬の口に狙いを定めた。周り中の注目を浴び続ける二人、その間に挟まれた格好の僕は、ちょっと鬱だった。
「あーっ、しまったっ!」
「ふふふ、ビタミンE,確かに受け取ったり!」
顔の前で右手を握りしめ、勝ち誇った表情で立っている古瀬の姿があった。飛んできたビタミンE錠剤を、口の中に入る直前につかみ取ったようだ。紺田は、頭を抱えて座り込んでいた。だが、その表情はちっとも残念そうでも何でもなく、むしろ笑っているようでもあった。
僕は、ひたすら苦笑していた。いつもと同じ、慣れた光景。それでも僕は、ただ傍観するだけで、中に割って入ることは出来ないでいた。
そんな僕の肩に、また少しだけ重みがかかった。いつの間にか立ち上がっていた紺田が、僕の肩に手を掛けていた。
「真面目な話、ちょっと体調悪そうだぞ。大丈夫か?」
耳元で、囁くようにそう語りかけてきた。僕は、油断させて息を吹きかけてくるつもりではないかと、気が気ではなかった。
「いや、大丈夫だと思う、たぶん・・・・」
「そうか。まあ、無理はするなよ。それと、夜遊びも控えた方がいいと思うぞ。」
「夜遊び?」
ビタミンE錠剤を小袋に詰めてしまい込んでいた古瀬が、素早く顔を上げて反応した。
「いや、夜遊びなんかしてないぞ。おい紺田、妙な事言うなよ」
僕は慌てて紺田を詰問しようと、振り返った。だがそこには、既に彼の姿はなかった。紺田は自分の持ち場に戻って、相方と自分の実験を再開していた。
「ねえ、夜遊びって、何?」
台座に肘を乗せ、頬杖を付いた格好で、古瀬が訊いてきた。金属板は振れが止まり、再びただ回るだけになっていた。
「いやだから、夜遊びなんかしてないってば。」
「本当に?」
「本当だ。紺田の言うことなんか、そんな簡単に信じるなよ。」
「紺田君は確かに変なやつだけど、嘘つきじゃないからねえ。それに、響助君の保護者だし。」
「なんだその保護者というのは」
「紺田洋平によると、彼は環境省指定第一種井塚響助取扱主任者だそうである。」
「またわけのわからない資格こさえやがって・・・」
僕は少しうんざりしながら、金属板に手をかけた。回転が弱まりかけていた。
「でも、響助君のこといろいろ気にかけてくれてるのは事実だよ?」
「気にかけているというより・・・ただまとわりついているだけのような気もするんだけど。」
「まあ、それは受け取り方次第かもしれないけどね。」
古瀬は、ノートの上に大きく×テンを描いた。さっきまで取っていた記録は、これで無効になった。
「でも、夜遊びは控えた方がいいんじゃない?」
「だから、それはやつの作り話で」
そう言いながらも僕は、心の中で不安を感じていた。もしかして紺田に、僕が毎夜行く場所、そしてそこで会っている人について、知られてしまっているのではないだろうかと。
僕の記憶の中から、、前夜のことが思い起こされる。
「こんばんは」
ドームの中で寝そべって星を見ていると、不意に視界が遮られた。肩から、髪の一部が垂れている。影になってはっきりは見えなかったが、それは野口毬音だとすぐにわかった。
「・・・星、見えないんですけど。」
「ええ。今日は、ちょっと意地悪してみてます。」
そう言われてすぐに思い当たった。ああもしかして、昨日の事かと。昨日は来なかったから。明確に言葉で約束したわけではないが、それでも僕がここに来るのは当たり前になっていたし、僕も彼女がここに来るのが当たり前のように感じていた。だから、唐突に来なければ不審に思うし、不機嫌にもなるかもしれない。
起きあがる。かすかな光を頼りに、彼女の顔を見る。笑顔だった。そして同時に、怒ってはいないという安心感が広がった。根拠はない。ただ、心の中にそれが、注ぎ込まれるように浸透していった。
「ごめん。昨日は実験で遅くなっちゃってさ。」
「うん、たぶん来れないんじゃないかって思って。だから実を言うと、私も昨日は早めに帰ったの。」
「ああ、そうなんだ。ならよかった。」
彼女はスカートの後ろを少しだけ手で押さえ、そのまま膝を折って僕の隣に座り込んだ。それほど広くないドームの床。その中心に、二人で座る。見上げると、星一つ。二人でその一点を見つめる。
「星一つだけ見えるってのは、やっぱりちょっと寂しいものがあるわね。」
「でも、それが味わいがあるとは思わないか?」
「味わいねえ」
「粋と言ってもいい。」
「それはさすがに違うと思うけど・・・」
薄く漏れてくる光の中で、毬音は苦笑した。
「あの星が、よほどお気に入りのようね。」
「ま、そうかもな。」
「理由なんか聞かせてくれると、ちょっと嬉しいかな。」
「理由・・・ねえ。大したことじゃないよ。」
「小学校の時にさ、星の観察ってやるだろ。でも僕の住んでた町って、都市郊外の住宅街でね、星なんか全然見えなかったんだ。で、あちこち見えそうな場所探し回って、やっと見つけたのが、あれ。」
「ふうん。それで。」
「そんだけ。」
「・・・・なんだ。素敵な恋のお話でも聞けるかと思ったのに。」
「残念でした。」
「せめて、『実はああいう趣味なんだよ』とでも言ってくれれば面白かったのにな。」
「星が趣味って事?」
「ううん。うん、いいの。わからないならいい。」
「・・・ごめん。もっとちゃんと勉強しとくよ。」
「いいのよ、わざわざ勉強するほどのことじゃないし。それに」
そこで彼女は一呼吸置いた。
「知らない方が幸せってこともあるしね。」
知らない方が幸せ。その言葉を口にしたとき、何故か彼女の顔がひどく寂しいものに変わった。そう思えたのは、気のせいだろうか。
「ねえ。」
「なに?」
「星、見てるだけ? 語りかけたりもするの?」
「さあ。独り言くらいは言ってるかもな。」
と言うより、星は言葉を返してくる事など無いのだから、語りかけているつもりでもそれは結局独り言ではないのか。そう思った時、彼女がそっと漏らした。
「そうね。星は生き物ではないから。」
「ああ、その通りだ。」
そして天井の星を見上げた。二人はしばらく黙っていた。澄んだ空はゆっくりと、しかし明敏に時の経過を感じさせてくれた。そこにある全てには何らの違和感もなく、見える景色も、語る言葉も、自分が今ここにいるという事実も、全てが当たり前であるかのような、そんな感覚を抱いていた。
そして波が峠を越す。
「んっ・・・?」
その全てが当たり前ではない、それに僕が気づいた時。ドームを縁取る木の向こう、茂みの中から物音がした。
「蛇か?!」
背筋に悪寒が走った。人の手がすぐ近くまで伸びているとはいえ、ここは森の中。小動物達の優先順位が高い場所だ。蛇が接近してくれば噛まれる可能性は十分にある。それがマムシやヤマカガシであれば、最悪死ぬ。戦って勝てば無論命は助かるし、それどころか地元紙の第2社会面に写真入りで載る事が出来るかもしれない。ああ、ちょっとした英雄だ。僕の脳が高速妄想演算を始めた。悔しがる古瀬。全校注目の的。集まる期待に、僕本来の力が発揮される。優秀さと、意外な経歴。強みは成功体験。そしてそこには、ずっとともに歩んできた人がいて。10年後、僕は。
そこで時の経過は止まる。勝てる保証など、どこにもない事に気づく。おかしな蛮勇は不要。早々に立ち去った方がよいか。そう思い、半立ちになって、隣に座る野口毬音に目配せをした。彼女は動かなかった。
「えと。なんかいるみたいなんだけど。」
それに対し彼女は言葉で返答はせず、ただ目線と表情とで僕に意志を伝えてきた。わかってる、大丈夫、なにも心配はいらない。そう言っている気がした。そして目線は、音のした方に戻る。僕の目線も、同じ方向に移る。何も見えない。何も聞こえない。時が硬直し、不安がそれに縛り付けられたまま。
―おいで、少しだけ姿を見せて、この人を安心させてあげて。そんな言葉が聞こえた気がした。すぐ隣に座る人は、ずっと口を閉ざしたままだった。それを訝しむ僕の意識は、茂みの向こうから再び聞こえた音によって逸らされた。何かがいた。月明かりでかすかに見えるそれは、ウサギの顔に見えた。僕がそれを認識した時、隣の彼女が少しだけ頷き、そしてウサギに見えた小動物はさっと姿を消してしまった。
「なんだ、ウサギだったのか・・・。」
僕の心に安堵が広がる。そしてそれが飽和した時、直前の自分の言動が思考対象として抽出されてくる。蛇と間違えた事。おかしな妄想。そして逃げ出そうとする自分。全てを口に出したわけではない。それでも、顔が熱くなった。汗が出そうだった。そして、何も見たくない気分に襲われた。特に、今隣にいる人の事は。
「気にする事無いわよ。知らないものは、誰だって怖いと思うものだから。」
そう聞こえてきた。今度ははっきりと、隣の人の言葉として。振り返る。彼女は立ち上がったところだった。
「行こうか。今日のところは、長居しない方がいいみたい。」
そう言って彼女は、手を差し伸べてきた。立てないなら掴まりなさい、そういう意思の表れだと僕は解釈した。僕は少し迷ってから、その手を取って立ち上がった。ほのかな暖かさが感じられた。ほんの、一瞬。それでも鼓動が早まった。
「そのうち、お互い慣れると思うから」
森を見渡すような目線で、彼女はそう言った。何に関してそう言ってるのか、そのときの僕にはわからなかった。
「あーん、またぼーっとしてる、もう!」
古瀬の言葉で、僕は我に返った。確かに止めた記憶のある金属板が、またくるくる回っていた。記憶の残像が、流れるように後方に引いていった。
「実験の授業は、ちゃんと正しいデータとれるまで、二人とも帰れないんだからね。わかってるの?」
古瀬の言葉に僕は、ただひたすら謝るしかなかった。
「すまん。つい、白昼夢に夢中になってしまった。」
「それ、洒落のつもり? でも悪いけど、もう白昼じゃないわよ」
窓から外を見たら、もう星が見えていた。どれがいつも見ている星なのか、見分けはつかなかった。
「ちょっと。また窓見たままぼーっとしたりしないでよ? 寝るなら家帰ってからね。妄想も同様。」
古瀬は怒っていた。
「全くだ。君たちが早く終わらせてくれないと、私も帰れないではないか。」
机の上に脚を投げ出した紺田が、偉そうに僕ら二人に語りかけてくる。
「「カエレ。」」
二人の声が同調する。それを聞いた紺田は、少しだけ顔を上げてニヤリと笑った。
「あんたは自分の分とっくに終わってるんでしょ。さっさと帰れば?」
「そうはいかないよ、大親友が苦しんでいる姿を後ろに自分だけ逃げるなどと言う卑劣な真似は、僕には出来ないからね」
「ああ、そうですか。じゃあ好きにすれば。」
苛立ち気味の古瀬を前にして、僕はおびえて何も言えなかった。紺田は黙って両手を広げ、そして脚を投げ出したまま漫画雑誌を読み出した。
結局その日は、21時過ぎまでかかってしまった。ドームには、誰もいなかった。
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