荒野草途伸ルート >> 荒野草途伸独自小説 >>ゆめいろの森の中で>>2話
2.
 
 彼女に初めて会ったのは、一月程前のことだった。
 僕は、夜の大学構内を歩いていた。大学と言っても、そこは殆ど森、否、はっきり完璧に森であった。数年前に、ここにあった原生林を切り開いて博覧会が開かれた。ただし、、自然破壊との批判を免れるために建物と道路以外の部分は木を切らず、虫食いのような形で造成工事が行われた。そして博覧会終了後、その跡地に作られたのがこの緑丘総合科学大学である。だからこの緑大の構内は、殆どが手つかずの森になっている。
 簡素に造られた道を少し外れれば、もうそこは深い森になってしまう。森の中は、人気がない。そして、街路灯もない。標識もない。そんな中を僕は、月光だけを頼りに歩いていた。それでも森の中は、意外なほど明るく感じられた。
 木々が林立し蔓草が這う森。傍目には同じような所ばかりに思える森。それでも注意を払えば、場所によってそれぞれ趣が違うものだ。古木の虚、枕木のように這った大木の根、根元に生えた茸の大群。そんな中でも、僕の特にお気に入りの場所があった。
 東に山毛欅、西に櫟。そしてその二本の木から展開するように、輪を描いて木立つ橿。
 ちょうど木に囲まれた、天然のドームがそこにある。
 ドームの中央に寝そべると、その目線の先に、ぽっかりと枝葉のない部分が表れる。そこから見える、一つの一等星。ただその星と星座の名を知っているだけで、その星座が、どんな神話に基づいているのか、僕は全く知らない。それでも僕は、その星を見るのが好きだった。たまたま見つけてしまった偶然、自分だけが知っていること。それはまるで子供じみた宝物だったけど、見上げた星から届く光は、僕の心に満足感を注ぎ続けていた。
 深緑の中に暗く開いたのぞき穴から星を見る。例えばあの星にも生命の存する惑星があったとして、彼らは今、自分たちの太陽が遠い星から覗かれているなどと、考えるだろうか。そして僕もまた、名も知れぬ遠い世界の人から、興味深げに観察されているのだろうか。そんなことを考えていた。
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 風が、吹いた。そしてその瞬間僕は、人の気配を感じ取った。
 ・・・まさか。この時間のこの場所に、僕以外に人がいるなんて。想像もつかないことだった。
 確かにここは大学の構内である。建物の中には、夜遅くまで、そして朝まで泊まり込む人もいる。だけど、メインストリートからかけ離れた、普通の人間にとっては何の用もないようなこの場所に、人が来るということが。しかも、こんな夜中に。
 しばらく、じっとしていた。狩人の気配を察知し、穴蔵の中で息を潜めるうさぎのように。しかし、そうしていても、誰かがいるのか、こっちに近づいているのかという事はわからなかった。そもそも、特別に聴覚や嗅覚が優れているわけでもない自分に、今現在目に見えない存在を関知するなど出来ない。こっそり後ろから近づかれて目隠しをされてしまう事だってよくあるのだ。
 ではさっき感じた人の気配というのは、一体なんだろう。少し強めのそよ風が、誰かがいるという錯覚を起こさせたのだろうか。だとしたら、多少なりとも疲れているというか。そんな分析をしながら、空を見上げる。突き抜けるような闇の中に、光の点々が見える。無限遠。そしてポテンシャルの対象は自分。感覚が増幅される、そんな気がした。
 そして再び、風が吹いた。
 探してみよう。そう思い、身を起こした。全くあり得ないわけではない。それにここは立入禁止というわけでもない。僕みたいな一風変わった趣味を持つ人間が、他にもいる可能性だってある。もしそうなら、それはきっと自分にとって話の通じる相手。数少ない自分の仲間、だ。
 僕は立ち上がって、ドーム上の木立に沿って周回し、脇道に入って辺りを見回した。所々に、泥濘が残っている。そういえば、昨日は雨が降ったんだっけ。ここを歩き回ったとすれば、足跡が残っているはずだ。草や木の根が覆っているとは言え、靴に泥が付くのを免れることは出来ないだろう。そう、それは寝転がっても同じ事で、もし今この場所でごろりと寝転がったりすれば、背中には確実に大地の染色が施されてしまうだろう。
 でも、あの場所は大丈夫。僕は、振り返ってドームの中を見た。枝が空を覆っているおかげで、地面に雨がかかることはない。そして何故だか、生えている草も、その密度が違う。まるで芝生のようだ。だから、あそこの中であるなら、心おきなく寝転がることができる。僕は再び、ドームの中に戻った。中心部は、星と月の光で少し明るい。
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 風。そして、人の気配。
 やっぱり誰かいる。誰だろう。そう思った僕は、そのまま辺りを見渡してみた。0時方向。いない。3時方向。いない。6時方向。いない。9時方向・・・・・・・。
 そこには、一人の女の子が立っていた。
 とりあえず、黙っておく。向こうも黙ったままだ。逃げ出すような素振りはない。僕を捕まえようという感じでもない。ただ、多少興味深げにこっちを見ている。
 僕は、どんな顔をしておけばいいのかわからなかった。とりあえず、無難に笑っておくことにした。ちょっと引きつったような笑いになっているのが、自分でも判った。
 そんな僕に、彼女は微笑みかけてくれた。大丈夫、ちゃんとわかってるから。そう言われたような気がした。
「・・・・・・。」
 背中が痛くなってきた。よく考えたら、僕は今、背中を270°もひねっているのだ。自分でもよくこんなに曲がったものだと思うレベルだ。紺田から酢酸と蜂蜜をたくさん摂っておくようにと言われていたので、何となく実践してしまっていたが、こんなところでその効果が現れたということだろうか。
 とりあえず、姿勢を正常に戻す。はずだった。が、勢い余ってバランスを崩した僕は、次の瞬間大地と接吻の儀式を行っていた。
「・・・う〜、くっそ〜」
 起きあがろうと、まず顔を上げた俺の目に、差し延べられた手が映った。
「・・・ありがとう」
 とりあえず礼を言って、その手を取ろうと思い手を伸ばしたところで、僕の中でくぎっという音が鳴った。背中に走った痛みに、思わず体を支えていた左手をずらしてしまい、再びバランスを崩して、倒れ込んだ。
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「ふふっ」
 ・・・醜態だ。かっこ悪すぎる。しかも、初対面の女の子の前で。僕は倒れ込んだまま、顔を地面に向けたまま、動くことが出来なかった。体が動かないのではなく、心が体を動かそうとしなかった。恥ずかしさのカルシウムが、心の中に殻を作り出していた。
 その心の中で、そっと温かい手が触れた気がした。驚いて振り返ると、そこには本物の手があった。否、それはさっきからそこにあった。
 とりあえず助けを借りて起きあがった僕は、もう一度礼を述べた。
「どうもありがとう。恥ずかしいところを見せてしまいました・・・」
 女の子は無言で、しかし笑ってそれに答えた。心の中に、淡い光が灯ったような感覚があった。
「ここに、何しに来たの?」
 僕は、立ち上がり服をはたきながらそう訊いた。服には泥も埃も付いてはいなかったが、何となく体裁を取り繕うためにそうしていた。それに、初対面の女の子の顔を正面から見つめるような行為は、僕には出来なかった。
「あなたは?」
 逆に、問い返す言葉が、答えの代わりに戻ってきた。僕の頭の中でいくつかの回答が並べられた。その中から僕は、この場にもっともふさわしいと思った答えを選んだ。
「星を見るため・・・・・かな?」
「星・・・。」
 女の子はそう言って、上の方を見上げた。その目線の先では木の葉と枝が天井を覆い、回折した光が淡く漏れ込んでくるだけで、空は見えはしなかった。
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「ああ。ほら、南の方の、あそこ。ちょうど枝が被ってないだろ。あそこから、星が見えるんだ。」
 そう言って僕は、彼女の後ろ側にある、枝が伸びていない穴の開いたようになった部分を指さした。
「そう。そっか、これを見てたんだ。」
 女の子は手を後ろ手に組んで振り返り、そしてそのまま右回りをして向き直った。
「でも、これを見るためだけに、わざわざここに来てるの?」
「だけって事はないけど・・。まあ、主目的、かな。」
「変わった人ね。」
「・・・ま、そうかもな。」
 誰か他の人間、たとえば古瀬や紺田辺りに言われると、それはカチンと来る言葉であった。否、彼らならまだいい。もっと別の、まだ会って幾日も経っていないような人間にそれを言われる、その不快さと悔しさを、僕は何度も味わっている。でも今、この目の前の少女にそれを言われても、僕は何らの不愉快さも感じなかった。
「で、君はなんでここにいるの?」
「私?」
 女の子は振り返って、僕の顔を見た。少し長い黒髪。それに光が反射して、撥ねているようにすら見えた。綺麗だな、と思った。
「そうね・・・。ちょっとした見回り、かな。」
「見回り・・・?!」
 その言葉に、僕はぎょっとした。
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「もしかして君、・・・学園警備隊の人?」
 この大学には、学園警備隊という妙なサークルがある。いわゆる自治会や警備のアルバイトというのとは違う。完全に自分たちの意志、もっと正確に言うならば自分たちの趣味として、この大学の治安を守っていこうという連中だ。
 もし学園警備隊だったら、隙を見て逃げよう。別に悪い事をしているからと言うのではなく、単に彼らと関わるのがいやだった。
「ううん、違うの。そうじゃなくて」
 あからさまに不安の表情を見せていた僕に、彼女は念を押すように違うという意思表示をした。
「ここは、私の庭、だから。」
「庭?!」
 僕はぎょっとした。安心したのは束の間だった。てっきり大学の敷地内と思っていたこの場所だが、もしかしたら誰かの私有地だったのか。自分はいつの間にか不法侵入、そして不法占拠をやらかしていたのか。
 この一帯の土地の大半は、元々は県有林だった。そこを一部切り開いて博覧会が開かれ、終了後は大学になって、土地も大学のものになった。が、一部だが私有地だったところもあった。そして、博覧会の開催に反対する人たちが土地や立木を細切れに買い取って抵抗運動をしていたとも聞いている。そういった土地の中には、最終的に買い切られること無く終わり、今でも敷地に大学に接するように点在しているものがある。ここも、そういった私有地の一つだったのか。
 僕は、頭の中で必死に言い訳を考えていた。だって、私有地だなんて知らなかったんだ、看板も何もなかったじゃないか。他の私有地はみんな、有刺鉄線こそ無いものの、境界線の標識が埋め込まれていたり当時の経緯を説明した看板が立っていたりで、少なくとも大学の敷地でないことは判っていた。でも、ここには
 木々が、ざわめいている。ふとそんな気がした。焦点が戻り、ちょっと困ったような顔をした彼女の姿が見えた。思考が、また現実に戻る。
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「ごめんなさい、そういう事ではないの。」
 彼女は、手を前に組んでいた。星を背にして、また僕の方に向き直っていた。
「ずっと昔から、ここで遊んでいたから。ほら、そういう言い方するでしょ、自分の庭みたいなものだ、って。」
「ああ、・・・。」
 そういうことか、そういうことか。緊張でつながれていた力が、僕の体中から抜けていった。
「言い方が悪かったわね。言葉って難しい。」
 そう言って彼女はまた、星の見える方角を向いてしまった。草がざわめき、風が同心円上に吹いた。その時、何かの声が聞こえた気がした。
「?」
 僕は、声の正体を確かめたくて、反射的に周りをきょろきょろしていた。誰もいなかった。僕と、目の前にいる女の子以外は。
 彼女は、手を後ろ手に組み、何かの音楽でも聴いているかのように、黙ったままそっと目を閉じていた。そしてまだ、声は聞こえ続けていた。はっきりとは聞き取れない、否、正確には意味を理解できない、そう、それはまるで、どこか遠い外国の歌のようにも聞こえた。
 優しい、歌。僕はそっと耳を傾けた。言葉としての意味はわからなくても、なにか伝わってくるものがあるように思えた。親しみ。歓迎。好意的な感情が僕の心を満たした。初めてなのにはじめてではない、そんな事を思ったとき、再び女の子は、僕の方に振り返った。
「だってあなたは、ずっと前からここにいたんだもの。」
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 それはどういう意味、僕が問いかける前に、彼女は次の言葉を継いでいた。
「これからも、ずっとここにいるのかしら?」
 それは、何かの期待を込めた言葉のようにも聞こえた。歌はもう聞こえない、だからそれは、僕の勝手な思いこみだったのかもしれない。それでも僕は、その期待に応えるつもりで言った。
「また来る。きっと、ここにいる。」
「そう。」
 彼女はそう言って、目を細めて笑いながら辺りをぐるりと見渡した。
「よかったわね。」
 それは誰に言っているのか、まだ判らなかった。判らなかったけれど、その時は、それを不自然だとも思わなかった。むしろ、そうする事の方が自然とすら思えた。
「今更だけど、私は野口毬音。文理の2年。あ、もちろん緑大のね。」
 その言葉で、僕は現実に引き戻されたかのような感覚を持った。今までまるで夢見心地のような感覚で話していたけれど、なんだ、この子は僕と同じ世界に住んでる人だったんじゃないか。
「僕は、井塚響助。文理の、自然学科の2年。」
「そう。こんなところも、似たもの同士だったのね。」
 彼女は笑っていた。僕も笑い返した。森は静かに時が流れていた。
 
 
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