9.
園 和俊。17歳。緑大のすぐ近くに住む高校生で、通っているのもここからすぐ近くの学校。その校内での評価は極めて良い、ただし交友関係といえるものが殆ど無いことを除いて。学校の授業が終わると、すぐ校内から消え失せる。そして多くの場合、緑大脇の森にある泉の側に来ている。何をしているのかは不明。端からは、何か遠い世界の言葉に聞き入っているようにも見える・・・・・・。
僕は、先日読んだ資料の内容を、繰り返し思い起こしていた。これから会う、園という少年についての予備知識。それを反芻することで、心の準備としようとしていた。
隣を見ると、毬音が深く呼吸をしているのが見えた。彼女もまた、言葉を心の中で繰り返しているのだろうか。そう思うと、自分たちがなんだか似たもの同士のような気がして、妙にうれしくなった。
湖、と言うには少々小さな、水の集まり。その側に、少年は座り込んでいた。それがきっと、園和俊なのだろう。何かを見上げるように、しかし、目は閉じたままでいる。確かに紺田ならずとも、なにか異世界と交信しているかのような印象を感じてしまう。そう思った。
そして和俊が、二人に気づいた。毬音を見て、ああまたかとでも言いたそうな表情をした。そして僕を見て、少し驚いたような表情を見せた。
「こんにちは。また来たわ。」
そう毬音は挨拶した。少年は何も言葉を返さずにただ会釈をし、そして、僕の方をじっと見ていた。僕はそれにどう反応していいのかわからず、同じように会釈を返すのが精一杯だった。自己紹介が必要だろうかと一瞬悩んだが、すぐにその必要はないことに気づいた。
風が、吹いた。かすかに水気を含んだ、心地よい風だった。そして僕の心の中に、これまでの記憶にない、誰かの意志が流れ込んできた。それが、目の前にいる少年、園和俊のものだと気づくのに、わずかな時間を要した。そして僕は、戸惑った。それはきっと、和俊の意志にも、少なからぬ戸惑いが含まれていたから。そしてそれは、きっと毬音にも伝わっている。
沈黙。言葉の交わされない空間。ただわずかなそよ風のみが、かすかに意志を伝えあっている。そんな気がした。
そして、和俊が口を開いた。言葉で意志を伝えてきた。
「あなたは・・・何をしにここに来たのですか?」
それは答えに困る質問だった。
「何をしに・・・って訳じゃない。ただ、毬音についてきたんだ。」
風に心がくすぐられる感じがした。和俊が自分の言いたいことを理解したのだと、そう思った。
「あなたは、不思議な人ですね。」
「なぜ。」
「僕に対して、いや正確には僕の力に対して、さほど関心を持っていない。それなのに、わざわざ僕に会うためにここに来ている。」
「いや、そうじゃない。本当に毬音に付いてきただけなんだ。」
そう言ってから気づいた。彼は、僕の本心を手に取るようにわかって、その上で言っているはずなのだ。だとしたら僕は、彼に会いたいと望んでここに来たと言うことなのだろうか。自分でもそれに気づくことなく。
「それはきっと、あなたという存在があるからなのですね・・・。」
和俊は毬音の方を見上げた。それは一瞬、羨望の言葉であるかのように聞こえた。だが次の瞬間流れ込んできた意志によって、それは否定された。強い強い、拒絶とも絶望とも言える感情。滑らかな物の、裏地にある棘。色で表せば黒。
「異種なる存在であるはずのあなたを」
それは言葉によって伝えられた。
「あなたにだって――」
毬音の声が上擦っているのがわかる。それが前と同じ、諭紀子と二人で会ったときにもあった状況なのだと、そういう情報が流れ込んできた。
「諭紀子はきっと、そういう存在になれるわ。」
やっとの思いで、毬音はその言葉を絞り出していた。和俊の今持っている意志と感情が、毬音にとって大変な苦痛であるということがわかった。止めたいと思った。そのために自分は来ているはずだと、初めて気づいた。
それに対して、和俊は牽制するかのような視線を送ってきた。そして、言葉が続いた。
「あなたがいるなら、やはり話しておかなければいけないようですね。」
「確かに――」
和俊の言葉が始まっていた。
「僕たちは、生物学的に大きな違いがあるわけではない。僕たちの持つ力にしたところで、実はそんなに大したことでもない。」
僕はただ、聞き入っていた。毬音の肩を抱きながら。
「人は元々、理解することが出来る。因果律に従った決定論的な法則が無くとも。今手元にある情報から、あるべき結果を自ら導き出すことが出来る。単なる予測ではなく、確信として。」
和俊の目は、じっとこちらを向いている。
「それは、人と人との間の、意思疎通に於いてもそうだ。例えば目の前にいる人が、どんな行動を取るか、どんな考えをしているか。ただ見ているだけでもわかることがあるし、ごく親しい間柄なら、殆どわかってしまうこともある。親が赤子の求めるものがわかるように。恋人同士が目で語り合うように。――僕たちはただそういう事を、より早く出来る。確実に結果を知ることが出来る。それだけのことだ。」
そこで和俊の視線は、僕たち二人から離れた。上を、空の方向を見ているようだった。
「ただそれだけのこと――それでも人は、僕らを異種として扱いたがる。」
異種。それはさっきも、言葉の中に出てきた。単なる奇人変人というレベルの意味ではない。自分たちとは根本から異なるもの。言ってみれば、人ではない存在。それはつまり、毬音や和俊は人ではない、若しくはそういう扱いを受けている。そう言いたいのだろうか。
「残念ながら、僕たちの持っている力を知れば、そういう意識を持つ人が多い。幸いあなたはそうでは無いようだけど。」
では僕以外の人間はみなそうだったということだろうか。僕以前に会っているはずの、諭紀子や、紺田もまた。表層にはなくとも、潜在的にそういう意識があるということか。
「それはある意味仕方のないことだ。人が持つ自衛本能のようなものだから。自分に害を為すかもしれないという可能性がわずかでもあれば、その拒絶の意志はなかなか消えることはない。もちろん、それを悪しき心として封じ込めてしまい、表に出さない人もいる。それをするかどうかは人によるけれども。」
「でもそれは――」
僕は、思わず反論していた。
「君が心を開けば――害のない存在であることを示せば、解消できるものじゃないのか?」
「そうかもしれない。たが、出来ないかもしれない。もっと悪くなるかもしれない。残念ながら、その結果を事前に知る力までは、僕らでも持っていない。だから実際試してみるしかないのだけれども――」
そこで、和俊の視線は毬音に向いた。
「その結果どうなったかは、僕よりも寧ろ彼女の方がよく知っていると思う。」
そこで毬音は、びくっと震えた。なにか、いやなことを思い出したような。そんな印象を受けた。それが何かまでは、もちろんわからなかった。
「確かにあなたは」
和俊は毬音に語りかけていた。
「それ以後も、力を使い続けている。人と人の思いを紡ぐべく、意志を風に乗せ続けてきた。多くの人の心を結びつけてきた。だが――あなた自身の意志が風に乗ったことは、それ以来一度も無い。」
毬音の表情がこわばった。僕は毬音の顔を見つめていた。見つめながら、毬音と出会ってから今までのことを思い起こしていた。確かに僕は、彼女の心の波長を知らなかった。
無音。森の静寂とはまた違う、そして何の意志も感じられない沈黙が続いた。
そして暫く後に、和俊が口を開いた。
「もう一つ。僕が心を開けない理由がある。」
毬音よりも、むしろ僕がその言葉に関心を持った。和俊はそれを了解していたのか、こちらを見てわずかに頷いた。
「ただそのために、ここから少し移動しなければならないけど。いいかな?」
僕は毬音の方を見た。毬音が頷いたので、僕の方から返答を返した。
「いい。行こう。」
「わかった。それじゃ。」
和俊は立ち上がり、先導に立つように歩き始めた。僕たちは、その後をついて行った。
湖を離れ、山道を歩く。ひたすら歩く。距離としてはわずかだが、狭い道に足を取られ、想像していたよりもきつさを感じた。
途中に、再び水が見えた。さっきまでいた所よりも、もっと水深が浅く、広い広い水溜まりのようだった。そしてそこには一面に、突き出るように枯れ木がそびえ立っていた。まるで木の墓場だ、そう感じた。
「そう。これは間違いなく、木の墓場だ。人の手によって水が止められ、森の一部はこうしてただ、その存在していた証を残すのみとなった。――だが、この光景を美しいという人もいる。」
確かにそれは、ある意味非常に幻想的な光景にも見えた。
「そういう感情を否定することは出来ない。理由や事情がどうあれ、それがその人の持つ思い。人としての表れだからだ。だが同時に、そこにある事実を否定することも出来ない――」
和俊の目は、再び目指すべき場所の方向を向いていた。
「あなた達がこれから知ることも、また同じだ。事実は事実としてそこに存在し、そしてそれに対するあなた達の思いが、これから生まれる。もしかしたらそれは、僕が今持っている思いとは違うかもしれない。だが、たとえそうなる事になっても僕は――あなた達に真実を知って欲しい。」
そう言って和俊は、再び歩き始めた。僕たちもまた、その後に付いていった。
道はもはや無かった。歩くのはとてもきつかった。そろそろ休みたいな、そう思ったとき、和俊が一度立ち止まり、後ろにいる二人の方を向いて頷いた。目的の場所に着いたのだと、僕は悟った。そして和俊は、ある場所にとゆっくり歩いていった。
そこには穴があった。人一人が入れるぐらいの入り口しか見えない。木々と草で覆われて、端から見たのではとうてい気づかないであろう場所。そしてそれがどこに通じているのかもわからない。
「ここを知って欲しかった。」
そう言って和俊は、手招きをした。僕と毬音は、それに従って穴に近づいて行った。何か盛り土のようなものがあって、その上を草木が覆ってしまっているのだとわかった。穴は盛り土の中に入るためのものだった。自然のもの、とは思えなかった。
「そう。これは、人が作ったもの。形は崩れているが、間違いなくそうだ。」
毬音が息をのむのがわかった。僕はただ、毬音の顔をじっと見ていることしかできなかった。
「あなたには、やはりわかるようですね。」
和俊はただそれだけしか言わなかった。言葉としては。しかし、彼と毬音が何を感じているのか、それは僕にもすぐにわかった。どちらの力によって流れてきたのかはわからない。あるいは、両方かもしれない。そしてそれは、それ以外では知り得ないもの。言葉では表すのが難しいものだった。
ここには、何らかの意志がある。
毬音の動揺が伝わってくる。今まで知らなかったもの。知っていて当然であるべきだったこと。それを知らなかった自分。衝撃。悔い。責め。そんな感情が入り交じっている。
「毬音・・・。」
その呼びかけにも、毬音は反応しなかった。そこまでの衝撃を受けるものなのだろうか、と僕は疑問に思った。
「あなたは、全ての情報を得ているわけではないですからね・・・。」
そう、和俊が言ってきた。
「僕の方で、意図的に抑制しています。あなたに全てを伝えるのは、きっと彼女の役目だと思いますから。」
そう言って和俊は、上から後ろを見渡した。木々の枝と葉が、そこを覆っている。あの場所、毬音と初めてあった森のドーム、あそこに似ている。そう思った。
毬音は口を固く閉ざしたままだった。拳を固く握りしめていた。ここに何があるのかはわからないが、今毬音に全てを聞くなどとうてい無理だ、そう思った。
代わりに僕は、和俊に訊いていた。
「ここにあるのは、いったい何なんだ・・・?」
和俊はゆっくりとこちらを向き、しばらく考えた後、言葉で答えを返してきた。
「記憶。」
「・・・誰の?」
「この森に生きてきた者の。そしてこの森そのものと言ってもいい。」
それは、なんとなくわかるようで、しかし理解しがたいものだった。あまりにも抽象的すぎた。僕が理解しきっていないことは、和俊にも伝わったようだった。
「そうですね。じゃあ、もう少し具体的な対象に絞って話しましょうか。記憶そのものを持っているのは、この森。木々の集合体としての、森。」
「木の記憶・・・ということか?」
「それはあまり正確じゃない。そもそも、木々の一本一本は記憶と呼べるほどの大きな情報を持つことは出来ない。意志ですら微弱で、ふつうの人間では感じ取ることが出来ないほどだ。だが――」
和俊は、森全体を見渡すように首と視線を動かした。つられて僕も、それを追っていた。
「大きな集まりになれば、別だ。木そのものとは別の、集合としての意志と情報が、そこに現れてくる。」
「集団心理・・・?」
「うん。きっとそれに近いものがあると思う。」
「じゃあ、その記憶というのは、木々の集団意識のようなものということなのか?」
「そう、手段としては。ただ、人の集団心理がそうであるように、集合体の意志というのは極めて気まぐれで、混沌としている。論理的な方向性というものがない。」
そこで和俊は、僕の目をまっすぐに見つめてきた。毬音の方を一度見て、そしてまた僕の方を見た。
「だがそこに、方向性を与えられるものがいたとしたら。あるべき情報を整理し、集団の再配置を促せる存在がいれば、そこには記憶と呼べるだけのものが生まれる。」
そこで僕は、はっと気づいた。
「それが――君たちということなのか?」
「実際に記憶を作ったのは、僕たちの祖先に当たる人たちだけれども。」
和俊は遠い目をした。文字通り、遠い場所を見ていた。僕は毬音を見た。まだ、何かを感じ取ってそれに耐えているようだった。
「毬音が、今感じているのは――」
僕は和俊に問いかけた。
「その、記憶なのか?」
「・・・そうだ。」
和俊は、じっと毬音を見つめた。僕は、和俊の方を見ていた。じっと動かない毬音。いっそその心境を、流してくれればいいのに。毬音と、意志も感情も共有させてくれればいいのに。あなたにはその力があるはずだ。そんな思いだった。
「それは出来ない。確かに僕も、あなたに彼女の支えになって欲しいとは思う。だがさっきも言ったように、それは彼女自身の意志によるべきだ。」
「・・・・。」
でもその意志は、いったいいつこちらに向けられるのか。もしかして、ずっとずっと永遠にこのままということはないのか。このまま押しつぶされて二度と僕の方を向かなくなる、そんなことはないのか。
「――大丈夫。もう、殆どの記憶を、休むことなく受け入れている。彼女は強い、少なくとも僕よりは。」
「・・・。」
「僕は、三日かかった。それを受け入れるのに、さらに三日かかった。そしていまだに、人を受け容れることは出来ない――」
だが、彼女なら。野口毬音なら。そんな期待を込めた思いが、僕に伝わってきた。そして気づいたときには、和俊はその場からいなくなっていた。
それからどれだけの時が経ったのかわからない。毬音がようやく口を開くようになり、肩を貸すようにして歩いて森を出て、寮の自分の部屋にまで連れてきた。ただ、その記憶だけがあった。記憶だけだった。感情が伴わない、遮断されていた。大声で泣きはらし、疲れ、顔が痙攣したまま宙を見つめている。そんな心境だった。
そして眠気が来た。毬音は側にいる、今は自分の手元にいる。だから安心だ。そう思うと、眠りたくなった。とにかく寝たかった。
毬音は横になっていた。じっと目を開いていたが、そんな僕の心境を察したのか、そっと目を閉じて眠ってしまった。それを見届けてから、僕も横になった。眠りはすぐに訪れた。
どれだけ眠ったかわからない。そして、まだどれだけ眠るかもわからない。ただ唯一わかるのは、それが夢であるということ。夢の中で、毬音が語りかけてきているということ。
私には、心が見えるの。
毬音はそう切り出した。
それが、当たり前だと思っていた。
人の心、動物の心、木々の、草花の心。
それは生命の生きている証。魂の響き。私はそれを感じ取れる。
相手が私を受けて入れてくれれば、心に語りかけることもできる。
生まれたときからずっとそれに触れ続けてきた。
語りかけてきた。
それは私の日常だった。
これは全ての人間に、当たり前にできること。そう思っていた。
でも、違った。
それを理解したのは、小学生の時。
とても仲のいい、友達がいた。
彼女は私を認め、わたしも彼女を信頼していた。
その心には、何らのやましさも見られなかった。
だから、語りかけた。心に直接。
言葉は、伝わった。彼女の様子から、心から、それは分かった。
でも、私の言葉だということは、理解されなかった。
戸惑った。
そして、何度も何度も語りかけた。
どうしてわかってくれないの?
私が話しかけているんだよ。
あなたが毎日顔を合わせて、一緒に笑いあってる、まりねだよ。
そしてその子は、学校に来なくなった。
「見えない人」の言葉におびえ、精神に不調を来してしまったのだ。
そのとき、初めて気づいた。
私に心が見えるのも、語りかけることが出来るのも、みんな特別な力だということに。
そして、その力のために友達を傷つけ失ったということも。
理解し、受け入れる事ができない人には使ってはいけないもの。
時にはそれ自体が、争いの種にすらなりうるもの。
それが、私たちの持つ力――
夢の記憶がまだ鮮明な頃。僕は目を覚ました。思考が戻ってきていた。夢の意味を考える意志が蘇ってきていた。だが、それを考える暇は、無かった。
横で眠っていたはずの毬音は、そこにはいなかった。慌てて部屋中を見渡した。机の上に、メモ用紙があった。ひったくるように掴んで、読んだ。二度読んだ。
『あなたに、全てを伝えたいと思います。さっきの場所にもう一度来てください。』
僕はそのまま飛び出していた。
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